リレー随筆「鮭っ子物語」  No.6

             

 忘れ得ぬ故郷村上


 第一回掲載の赤見さんと同じように小学校2年生まで横浜の学校、3・4年は村上本町小学校。5・6年は村上小学校と過ごさせて頂いた。本町小学校は村上町小学校と隣り合わせで板塀で仕切られていた。担任は女性の安澤先生、美人であったが恐ぁ〜い先生であった。村高に入った時、ささやかだが奨学金を頂いたのでタイトルにある鮭っ子の一員になった。父が外国に勤務していたため、強制疎開で村上に帰り、高校を卒業するまでの10年間を村上で過ごし、忘れ得ぬ故郷となっている。

  学生時代から社会人になっても、今まで掲載された方々のように一度も優等生であった事がない。偉い人や村上賛歌ばかりでは、このリレーエッセイが長続きしないと、前号の斎藤さんが私に振ったと勝手に解釈して引き受けた。

 私の家は、お蔵屋敷と呼ばれて三ノ町にあった。といっても豪勢な邸宅できなく、藩の米蔵の番人の家で、江戸時代中の頃建てられたと推測されたが年代は分からない。屋根は茅葺き、土壁に杉の皮を張ったオンボロ屋敷である。回りを竹薮が囲んでいたせいか俗にお化け屋敷とも言われていた。ただ、住んでいる人間にとっては意外と快適で、あの新潟地震にも耐え抜いた。若林邸と細い路地を挟んで裏がつながっている。 
 茅葺き屋根は、人が住んで囲炉裏で火を焚き、煙で燻さないと寿命が短く、茅の手当てと茅葺き職人の不足など維持費が馬鹿にならない。両親が亡くなってから暫く空き家で置いておいたが、町なかで茅葺き屋根の空き家は危険と消防の方から注意もあり維持費のことと併せて家を解体した。一年後に稚子さまのご成婚やテレビの旅番組の放映で村上が有名になり、市の方から「お前はどうなった」と問い合わせがあった。たった一年の差で少々残念である。以前は、村上と言っても知る人は少なく、群馬県の水上と間違えられたが、注目されたお陰で知らない人はほんどいなくなった。最近はもっぱら故郷の宣伝に努めている。

 学生時代に水泳部に所属していた関係で水に潜ることを趣味にしていて、何も制約を受けないシュノーケル一本で魚と鬼ごっこをしている。夏に帰ると岩ケ崎や瀬波へ、意外に瀬波温泉の海はいろいろな魚が数多く見受けられる。波打ち際の近くで3、4匹の集団様で悠々と泳ぐすずき、ヒレをばたばたすると砂と見分けが付かなくなるカレイ、黒い石ころと間違う蟹、岩に挟まれた砂地にいるキスの大群、残念ながら釣竿の届かない所で、潜っていって蹴散らし、息継ぎをして戻るとキスの群も元の所に戻っている。地元の漁師さんは知っているだろうが場所は誰にも言わない事にしている。水の綺麗なのは笹川流れと府屋の海岸。三面川河口の滝の前から見る夕日は、海は金色、川面は銀色に輝き実に美しい。
 ある時、友人から「年を取ると水に入るのは億劫になるから山に来い」と誘われ、40を過ぎてから中、低山に登り始めた。泊まりは必ず温泉という優雅な山登りを楽しんでいる。お陰でなかなか人の行けない秘境の宿も数多く知る事ができた。日本百名山の著書の深田久弥氏の終焉の地、山梨県の茅が岳、その近くの八ッ岳、谷川、妙高、などに登った。冬になると村上から白雪の秀麗な姿を見せている朝日岳、飯豊山には未だ登っていない。歩けるうちに挑戦したいと思っている。

 先祖からの墓があるので毎年帰省はしている。今年は40数年振りに村上大祭に合わせて帰郷した。本町に住んでいたので直接お祭りに参加したことはないが、あのチャンチャンジキジンの鐘の音を聞くと腰が落ち着かなくなる。これから時間を見つけてせっせと村上に帰り、友人を見つけ、図々しく家に上り込み一杯やりながらオシャギリを見たいと夢見ている。誰か叶えてくれないかな〜。



リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)

     





淺川元伸(あさかわもとのぶ)
   村上小学校卒業(昭和24年3月
   表面技術ジャーナル社 代表













瀬波温泉の夕日






















7月7日に行われる村上大祭













次回予告
佐々木百合子さん

 
村上小学校卒業(昭和25年3月)
現在世田谷区教育センター勤務


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