「鮭っ子」の人材を発掘し、話題を提供することは、次世代を受け継ぐ若人に対して郷土に誇りと自信を与え、ふるさと村上を活性に導くエネルギー源となればと切望している。
人と人との出会いは、正に奇縁によって結ばれてる場合がある。
ある会合で、東京理科大学教授周英明先生と親しく話し合う機会があった。先生はロータリークラブの米山奨学金留学生として台湾から来日し、学問的業績を研鑽されている方である。
先生の生い立ちについて伺っていると、父親が村上出身の長尾半平奨学金にお世話なった話に及び、村上につながる不思議な縁をお互いに感じ合ったものである。
私は、学生時代から古本屋あさりが好きで高円寺の都丸書店で購入していた「長尾半平傳」(石井満著昭和12年教文館発行)のことを想い出した。今回の原稿依頼を受けて読み返して見るとあまり一般には知られてない歴史的秘話を見い出すことが出来、興味つきないものがある。長尾半平は、慶応元年旧村上本町掘片の武士の家に生れた。父右門は明治6年開校された村上小学校長を拝命し、半平も村上小学校に入学した。卒業後は新潟語学校を経て鮭っ子として上京し、明治24年東京帝国大学工学部土木科を卒業した。その間、青年期の苦悩の中で麹町教会で受洗しクリスチャンとなった。
大学卒業後土木監督署技師として内務省に入省し、明治31年台湾総督府技師として赴任し土木局長となって活躍した。長尾奨学金を創設し、台湾での育英活動にも熱意を示し人材育成にも努力した。この期間に周先生の父親も長尾奨学金の恩恵に浴したものと思われる。その後鉄道院理事、新渡戸稲蔵に請われて東京女子大学副学長や明治学院院長代理、禁酒同盟理事長等を歴任した。また東京市長後藤新平の要請で東京市電気局長にも就任した。昭和5年衆議院議員となり、昭和11年朝鮮総督府で病気で倒れ72才の生涯 を終えた。
明治33年台湾在任中欧米出張の折、ロンドンでは留学中の夏目漱石と親しく会い何回か食事も共にしている。漱石全集の日記の中に“終日長尾君と話す”という一節が、それを証明している。当時文部省から留学した漱石よりも、台湾総督府から公用出張した長尾半平は旅費も潤沢であったらしく漱石を度々食事に誘ったようである。日記の一部に “パリの長尾君より来信。長尾君に手紙を書く。借金の為なり”という一節を見るにつけ、文豪漱石がロンドン滞在中に長尾半平から金を用立てて貰ったことは間違いない。この話は後日、長尾の息子新輔と大佛次郎との会話からも検証されている話である。
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部) |
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齋藤 實(さいとうみのる)
村上小学校卒業(昭和24年3月)
社会福祉法人しあわせ会理事長
都立富士高校嘱託教諭(兼任)
世界教育連盟常任理事 |
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長尾半平
内務省技師時代(明治25年頃)
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長尾半平
東京市電局長の頃(大正11年)
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次回予告
淺川 元伸(あさかわもとのぶ)
村上小学校卒業
現在業界誌発行
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