人の運命とは全くわからないもので、三面川の源流を持つ朝日村の山中を駆けずり回っていた私が、日本から1万5千キロも離れたサハラ砂漠を歩き回るとは...。正に「インシ・アラ−」(アラ−の神の御心のまま)である。
今年で73才になる私の夫はNGO組織のリ−ダ−をやっている。主人は子供の頃からガキ大将だったらしく、定年退職になるやいなや、待ちかねたように趣味のアマチュア無線の仲間に声をかけて、開発途上国援助のボランティア団体を作り上げてしまった。驚いたことに世の中には物好きな方というか、暇のある方というか、私たちの想像を超えた人たちがいるもので、あっという間に日本全国から50人余りのアマチュア無線家たちが集まった。
主人は近くの大工さんを連れてきて、さっさと一階のガレ−ジを物置兼組織の事務所に改造して、外務省にNGOの登録を済ませ、NGO組織「国際アマチュア無線ボランティアズ」を開設した。そして、どこからか償却期限の終わった中古タク−無線機をたくさん集めてきて、夜な夜なアマチュア無線仲間と作業の末、調整の終わったセットを開発途上国へ持って行って、救急車や診療所に医療用連絡無線機として取付けるのが、この団体の主な仕事となってしまったようだ。
私も主人の勧めで、40年前アマチュア無線の免許を取ったいわゆる「ハム」の端くれだったので、やむなくこの仕事を手伝う破目になったが、5年前93才で亡くなった夫の母も、民生委員をやったりして、私自身も社会福祉の仕事を手伝っていた関係で、ボランティア活動には興味があり、ともかくここ10年間は東南アジアのカンボジアから始まって、中近東のパレスチナ、アフリカのモ−リタニア、西サハラなどへ年に2、3回は出かけるようになってしまったのである。
私たちの活動は、最近もっぱら「第二の東チモ−ル」といわれる西サハラ難民への援助活動に集中している。第2次世界大戦が終わり、当時スペインの植民地だった西サハラ地域は、スペインが植民地支配から手を引いた直後、「サハラ・アラブ民主共和国」の建国を宣言、以後モロッコとモ−リタニアを相手に数年に渡る独立戦争に明け暮れたが、その間戦火を避けて隣国のアルジェリア南部、チンドウフ付近に移住した、所謂「西サハラ」難民の数は数十万人ともいわれ、大きな国際問題となっている。
一口に、西サハラ援助といってもなかなか難しい問題があり、まずは同地域への入国ル−トである。アルジェル−トはアルジェリアの政情不安から、セキュリティイの点で難があり、一方モ−リタニアから入るル−トはパリダカラ−リ並みの苛酷なサハラ砂漠横断ドライブが待っている。私たちは隊員の身の安全を考えて、モ−リタニアル−トを選択した。途中、砂漠で野宿するなど辛い経験を重ねながら、各地に無線局の建設援助を続けているが、医療無線が通じて中央の病院と連絡が取れたときの看護婦さんの笑顔や、満天の星の下の砂漠ビバ−クの素晴らしさを思えば、どんな苦労も吹き飛んでしまう。そして日々平和な中に暮らす私たち日本人は何とも幸福な民族だなあと、つくづく思ってしまう今日この頃である。
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部) |
|
林 節子
(はやし せつこ)
旧姓上山 節子
朝日村立塩野町小学校卒業(昭和24年3月) 村上高校時代3年間村上市大町に下宿生活
|
|
|
著 者
|
西サハラ領内から許可を得て
アマチュア無線を運用
左が著者・右が著者の夫
中央が西サハラ政府のセイン郵政次官 |
西サハラの位置を示すアフリカ西部の地図。
北はモロッコ、東はアルジェリア、南はモーリタニアと国を接している。
|
アラブ・サハラ民主共和国の国旗が翻るチンドウフ近辺の「サハラ難民キャンプ」をデザインしたアマチュア無線局、Sø7CRSの交信証カード。
交信した全世界のハム局約6000局に郵送され、さらなる同国への援助を訴えた。 |
次回予告 |
山田 善弘(やまだ よしひろ)
昭和25年3月 村上小学校卒業
|
|