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美しい海岸線を保護するためと思いますが、グロテスクなテトラポットは少年時代にはない代物でした。自宅から徒歩10分で海へ直行できる少年時代の最大の楽しみは、夏の日本海を自由奔放に「素潜り」し、岩牡蠣や手製の銛(当地言葉でヤス)で魚を追いかけるのが待ちどうしいものでした。 中学生になった頃には、瀬波温泉でも有数の「潜り手」に成長しておりました。 夏の日本海における「素潜り」ゴールデンタイムは午前7:00〜9:00が一番です。人気のない海と魚が動き出す前の静寂な環境をまるで自分一人のものとして活動できるからです。「素潜り名人」を自称しており、同級生や後輩にもライバルが存在せず、自慢しておりましたが、たった一人私よりも上手な「潜り手」がおりました。「見晴らし旅館」の長男でその人の名前は「浅野博喜」さんでした。 どこの岩陰にどんな魚がいるか大よそわかるほどになっていましたが、今日は大物を狙うと決めていくのですが、広い海に既にライバル浅野先輩が一人行動を開始しておりました。 挨拶もほどほどに、負けるものかと私も自分の猟場へ直行します。 浅野先輩はスポーツ万能で、社会人になられてた後は「ゴルフの倶楽部チャンピオン」になられたと聞いておりますが、素晴らしい「潜り手」でありました。 残念ながら私が追い抜けなかった唯一の先輩でありました。 夏の岩牡蠣は大変美味しく、養殖と違いまるでプリンのような肉厚で、取れたての牡蠣を泳ぎながらそのまま生で食べたり、焚き火の中に入れて焼き牡蠣として、海水で洗い流して食べたものでした。しかしこの「岩牡蠣」は岩船漁協漁師の専属管轄で、一般人が取ってはいけないことになっておりました。一方事情の知らない街の子(村上衆)は牡蠣取り漁師の怖さを知らないため、大胆にも目の前で牡蠣を取ったり、取った獲物を砂浜に陳列し、折角苦労して得た「宝の山」を漁師に没収され、おまけに漁師に叱られて泣きべそをかいている光景によく出くわしたものでした。 我等海の子は取った獲物は砂浜に穴を掘り埋めておき、牡蠣取り漁師が沖へ出たのを確認しゆっくりと獲物を取り出し、自宅へ運ぶ手法でしたので、一度も漁師の検閲に掛からず美味しい牡蠣を食べたものでした。 夏は禁猟期間中で生きのいい魚が取れず、私が取った魚(あいなめ・油子・海たなご・銀鯛・鰈・ねじれ等)が我が家の夕餉の食卓に並ぶことが自慢でした。 獲物の中から一番大きな魚は父の「酒の肴」と決まっており、仕事から帰った父が晩酌の際「美味しい・美味しい」と言いながら大事そうに食べていたのが忘れられない思い出であります。 私にとって故郷は一言で言うなら「瀬波の海」であり、海は少年時代の私に無限の楽しみと健康を与えてくれたと感謝しています。
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