ロダンの懐刀
稲垣 吉蔵(イナガキキチゾウ)
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資料提供
村上市郷土資料館
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フランスの生んだ世界的彫刻家「考える人」で有名なロダン(1840〜1917)がもっとも信頼していたのは日本人の稲垣吉蔵であり、その吉蔵が村上の出身であることはほとんど知られていない。
吉蔵は、村上市小国町2-14、宮大工 稲垣末吉の二男として明治9年(1876)4月11日生まれています。
何才の頃に東京に出たのかは明らかでないが、苦学して東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入り、明治37年に同校卒業、同39年(30才)にフランスに渡っています。
明治39年9月
東京村上市岩船郡郷友会雑誌より
「村上安良町の人 稲垣吉蔵氏 東美大の選抜により仏国へ留学を命ぜられる。石像彫に於て秀才なり。」
島崎藤村が吉蔵に会ったのは大正2年12月7日でトリニティ寺院に近い日本人の料理屋で開かれた小杉末醒の送別会です。藤村は異邦人(エトランゼ)の中にその時の吉蔵が村上甚句を歌ったような印象を書いています。
島崎藤村著 大正2年(1913)
「異邦人ーエトランゼー」より
「私はその美術家仲間でも一番古参な稲垣君という人にも逢った。稲垣君はロダンのアトリエで彫刻の手伝いをしている人で国を出てから七、八年にもなるという。」宴たけなわのころ指名され「国を出てから七年にも八年にもなるという稲垣君はさすがにふるさとを恋しく思うかして、われとわが声に聞き入るかのように目をつむりながら、若い時分から得意らしいものを歌った。」
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吉蔵は、大正3年10月パリ第15区新テアトル10番地でロール・ペルトル(日本名キク)と結婚、同12月フランスに帰化しました。
村上市大工町の光済寺の先代安富成中氏が留学中吉蔵を訪ねたのは大正13年の春で、その時の様子を「ロダンは吉蔵の彫刻の技術のすばらしさにひかれ、とても高い評価をしていたようで、そんなことから吉蔵はロダンの技術上の相談相手となりながら、ロダンが年老いた時には秘書的な片腕というべきもので、ロダンは何事も同氏の手を通じなければ手を通じなければ喜ばなかったそうだ」と述べています。
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大正13年(1924)
村上市大工町光済寺先代 安富成中氏(ソルボンヌ大留学中)
「稲垣君は、単にロダン翁の技術上の相手であったばかりでなく、翁の晩年にはほとんど常時眤近ともいうべきもので、ロダン翁は何事も同氏の手を通じなければ喜ばなかったそうです。」
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吉蔵は一度も故国日本へ、故郷の村上へは帰ってきませんでした。海の美しさ、三面川の流れ、祭りのにぎやかさ、幼なじみの顔、そんな故郷の思いを胸に過ごしていたと思います。
昭和26年76才の生涯を終えました。
吉蔵は一男一女、長男留苗(ルネ)は第二次大戦でドイツのUボートと戦って戦死、長女シモータが継いでいました。
没後51年目の平成4年、娘シモータさんが父の果たせなかった故郷・村上への里帰りを実現。「村上で堆朱をやっていたことが父のベースとしてあったことで父も彫刻をやれたのだと思います」と話していました。
経 歴
明治9年(1876)4月11日
村上市上町290番地
現在の村上市小国町2-14に生れる
明治27年(1894)
村上工芸会第一回技大会(於安善寺)
彫刻の部 3等 褒賞
明治32年(1899)
日本漆工技大会(於東京上野公園)
巻莨入 3等 褒賞
明治32年9月
東京美術学校彫刻科選科入学
明治37年(1904)
同校卒業
明治39年(1906)
フランスに渡る
大正3年10月
ロール・ベルト(日本名キク)と結婚
昭和26年(1951)5月5日
パリの自宅で逝去。 76才
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稲垣吉蔵氏の家族 |
作品 丸盆
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村上市郷土資料館
新潟県村上市三之町7-9
Tel 0254-52-1347 |
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