2014年12月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.162 |
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士族が残れた「城下町村上」 |
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明治維新後、士族たちが、そのまま村上で生活できたので、旧武家町の地割りのほとんどが残っています。その訳は、「村上市史」「我が郷土を語る」に以下のように記載されています。 【村上市史 通史3 近代】より 各地に、「士族の商法」といわれる商法で、失敗した話が多く残っているように、自活を求めて諸職についた士族の途は、今までの特権階級社会とは異なる試練の道であった。明治十六年六月、政府は士族授産に対する保護政策と、一般生活の実態を調査するため、元老院議菅渡辺清に県内を巡察させ、その結果を報告させている。報告書によれば、近隣地の士族たちの困窮状態は、つぎのようであった。 (1)新発田士族は維新前は裕福だったが、現在は困窮している。教員、郡史、巡査そのほかの官途について生活している者が多い。 (2)村松士族は恒産のある者は少なく、自活できる者は十分の二に過ぎない。 (3)村上士族は三面川の鮭漁によって生計を支えている。 各地で種々の授産事業が試みられた。新発田士族の開墾事業、村松士族の菜園開墾、村上士族の鮭漁などである。しかし、このような事業のみでは、全士族の生活の資にはならない。 【我が郷土を語る】より 旧藩士は、政府より鮭鱒などの漁業許可をえて、三面川の漁区流域の堤防護岸の修築をおこなうこととなったが、ここに使役する人夫を旧藩士より採用した。(中略)きのうまで「何や貴様」などといって威張っていたのが、今日はあろうことか堤防人足にまで落ちても、生きて行かなければならない境遇となった。当時、この人足の仕事を達過(だてすき)といった。達にやってその日を過ごすという意味か知らないが、仕事といっても誠に楽なものであって、半ば遊び同様、毎日腰を掛けて杭打ちするだけのことであった。工事とは名ばかりで、失業救済でもあり、彼らの衣食せしめるのが目的であったろう。 三面川の鮭が救ったからなのか、士族が村上に留まることが出来、昭和二十一年まで、村上本町(士族)と村上町(町人)という行政区があり、小学校も本町学校と町学校がそれまで存在しました。 昭和二十一年六月一日、両町は合併し「村上町」となりましたが、全国でもまれにみる、戦後まで残った「城下町」でしょう。 現在、人口の減少で多くのまちは、衰退していくことが想定されています。今、もういちど鮭を中心とした「食のむらかみ」づくりで、村上が生き残っていくことは、可能だと考えられます。村上の気候風土が生み出した「塩引鮭」の知名度を高める努力が必要です。 |
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