http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001
2014年12月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.162



士族が残れた「城下町村上」



安沢 孝雄
(やすざわ たかお)
神納東小学校卒
村上高校卒 19回生
東京写真専門学院卒
村上広域情報誌2001編集長
安沢写真事務所代表






村上城址




まいづる公園(武家屋敷)




村上本町学校(絵葉書)




三面川の鮭漁




三面川の鮭漁(絵葉書)
 明治維新後、士族たちが、そのまま村上で生活できたので、旧武家町の地割りのほとんどが残っています。その訳は、「村上市史」「我が郷土を語る」に以下のように記載されています。

【村上市史 通史3 近代】より
 各地に、「士族の商法」といわれる商法で、失敗した話が多く残っているように、自活を求めて諸職についた士族の途は、今までの特権階級社会とは異なる試練の道であった。明治十六年六月、政府は士族授産に対する保護政策と、一般生活の実態を調査するため、元老院議菅渡辺清に県内を巡察させ、その結果を報告させている。報告書によれば、近隣地の士族たちの困窮状態は、つぎのようであった。
(1)新発田士族は維新前は裕福だったが、現在は困窮している。教員、郡史、巡査そのほかの官途について生活している者が多い。
(2)村松士族は恒産のある者は少なく、自活できる者は十分の二に過ぎない。
(3)村上士族は三面川の鮭漁によって生計を支えている。
各地で種々の授産事業が試みられた。新発田士族の開墾事業、村松士族の菜園開墾、村上士族の鮭漁などである。しかし、このような事業のみでは、全士族の生活の資にはならない。

【我が郷土を語る】より 
 旧藩士は、政府より鮭鱒などの漁業許可をえて、三面川の漁区流域の堤防護岸の修築をおこなうこととなったが、ここに使役する人夫を旧藩士より採用した。(中略)きのうまで「何や貴様」などといって威張っていたのが、今日はあろうことか堤防人足にまで落ちても、生きて行かなければならない境遇となった。当時、この人足の仕事を達過(だてすき)といった。達にやってその日を過ごすという意味か知らないが、仕事といっても誠に楽なものであって、半ば遊び同様、毎日腰を掛けて杭打ちするだけのことであった。工事とは名ばかりで、失業救済でもあり、彼らの衣食せしめるのが目的であったろう。

 三面川の鮭が救ったからなのか、士族が村上に留まることが出来、昭和二十一年まで、村上本町(士族)と村上町(町人)という行政区があり、小学校も本町学校と町学校がそれまで存在しました。
昭和二十一年六月一日、両町は合併し「村上町」となりましたが、全国でもまれにみる、戦後まで残った「城下町」でしょう。
 現在、人口の減少で多くのまちは、衰退していくことが想定されています。今、もういちど鮭を中心とした「食のむらかみ」づくりで、村上が生き残っていくことは、可能だと考えられます。村上の気候風土が生み出した「塩引鮭」の知名度を高める努力が必要です。


リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)
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