2013年8月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.146 |
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鮭は4年で生まれた川に戻るが 息子は戻ってこない |
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青砥家は概して男の子に恵まれない家系で、養子によって支えられ,綿々と続いたと言っても過言ではありません。青砥家12代当主良綱は陸軍士官学校を卒業し日露戦争に従軍、陸軍歩兵大尉でしたが、幼い3人の娘を残して戦死しました。父、角田勇は青砥家に生まれましたが、母方の角田家に嫡子が居なかった角田家の養子になっておりましたので、一時青砥家の当主は空席でした。 青砥良綱の妻のお柳伯母と私の父角田勇が相談の上、勇の三男、末っ子の私哲平が中学校入学と同時に青砥家へ養子に入りました。 角田の両親と兄弟達とも姓が異なると言う事は思春期の自分には大いなる戸惑いもありましたがその後50余年が経ち青砥の姓は当たり前の事となりました。 生前の父(角田勇)からは青砥家の当主としての心構えを常に植えつけられて育てられました。そこには父の青砥家の思い入れが有ったものと思います。青砥家の菩提寺は光徳寺ですが、墓地は宝光寺にあります。父は青砥家の墓参りには常に私を伴い宝光寺の石段を登り10Mほど進むと右側に教育家三好愛吉先生、それより前方左側に戊辰戦争の時、村上の町を救った家老鳥居三十郎のお墓が有ります。父はその二つの墓の前で深々と頭を下げてから青砥家の墓に向かいました。郷土の偉大な先人達を敬う事も青砥家の当主としての心構えの一つだったのでしょう。私も父の姿を思いつつ墓参りの折には同じ様に頭を下げております。父の青砥武平治への思いは強く、常々その偉業については幼い時から聞かされていました。村上のお正月は何処の家庭も鮭料理です。村上での我が家のご馳走はお正月と村上大祭の2回です。幼い頃は各家々の軒下に鮭が何本も吊るされている光景を見ておりました。青砥家も縁側の軒下に数本の鮭が吊るされていました。 今、村上が観光名所として全国的に知られる様になったのは何より嬉しい事です。村上を離れて50年近くなりますが、お城山の石垣、お城山から見る町並み、三面川等そして瀬波の温泉、幼い頃の思い出が走馬灯の如く浮かんできます。 今の勤務地 府中の大国魂神社の祭礼や今住んでいる横浜にも開港祭のような地元ならではの大きなお祭りがありますが、私にとってのお祭りは村上大祭のおしゃぎりの巡行する景が何より好きです。 鮭は3~4年で故郷の川に戻ってくるように、自分の子供達もいずれは戻るのではと思っていた父、50年も戻らない息子を墓の下でどの様に思っているのでしようか? 齢のためか現役を退く様になった折には村上に戻って余生を過ごすのもいいかと思うこの頃です。 今年は村上では(青砥武平治生誕300年祭)のイベントを開催されることを感謝致すとともに成功することを心より祈っております。 |
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