2013年10月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.148 |
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春の日の迷想・妄想そして瞑想 |
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小学校時の同級会の案内が来た。 思えば、私の小学校の事は卒業以来あまり感心を払ってこなかった。 その小学校校舎は、今は市内小学校の統廃合により取り壊されて跡形もなく、ただ校舎正面にあった大きな松の木一本だけがグランドの中に残って幽かな面影を残している。 私事で、二人の娘の小学、中学時はほとんど学校のことは、ワイフにまかせきりであり、今から考えれば、まさに「減点パパ」であり、いわゆる高度成長期の戦士として、遠い就職地で家庭事よりも仕事仕事に精力を尽くしていたのかもしれない。 いま、孫三人いて外孫ではあるが一番上が今年小学校一年生に入学した。定年退職して静閑と生活している中で、「小学生」、「小学校」に改めて関心を持つようになった時であった。 喜んで、懐かしき人に逢える同級会に出よう。 私の一年生は昭和十九年の「国民学校初等科」入学である。すぐ終戦、混乱期となったわけであるが、もうほとんど忘れかけている。泰安殿にお辞儀して登校し、男女別々の教室、講堂、遊び場と・・・・・。 村上は封建的な土地柄が終戦後まで、町中に、背中合わせに小学校が二つあった。旧藩の士族地区より通学する子の「本町校」と私達町人街から通う子の「町校」であった。 これは全国的にも珍しく小さな町に身分的に別れての二つの学校がそれなりにプライドがあり、また意地もむき出しにすることもある子供時代の小学校であった。 そんな中で、三年生から男女共学になり、そして「町校」と「本町校」が統合されたのであった。本町校は町立村上中学校となり、町校は村上町立村上小学校となったのである。 時に、小学四年七組に進級時であった。このクラスが五年生、六年生へとクラスメイトも、担任の先生もそして教室の変わることなく昭和二十五年三月に卒業したのである。 今まで五十人以上もいたのにその時のクラスは他クラスに比べて少人数であった。 教室も普通教室から、前は泰安室か特別室らしく、黒板上には大きな戸棚があり、何か安置していたのか飾り棚か大事な戸棚みたいなものがあったような小部屋の教室であった。それでも隣の六組は以前の礼法堂らしく廊下とのしきりは確か障子であり畳を取ったような気がする教室。しかも我が教室は校舎中央の職員玄関上にあり、窓からはそぐその屋根に出ることが出来た。 先生は本町校から転任された安沢操先生。女先生でありながらおっかない先生のように思えたのが第一印象だった。今から考えれば、本町校から来た生徒は皆おとなしそうに見え、そして利口そうに見えた。私ども町方の子供らから見れば皆、坊ちゃんお嬢さんたちにも見えた。しかも先生が本町校から来た先生。よく落ち着きがない、騒々しい、行儀が悪いなどと私どもは叱られた。そんなことが怖い先生というイメージに繋がったのかもしれない。自分らが悪かったのを棚に上げて。 そしてまた今から考えれば、当時の安沢先生は新進気鋭のバリバリの希望溢れる熱血漢のエリート女教師だったのだろうと勝手に想像している。ボツボツと詰まりながらの本読み、発音の悪さに、仮名使いのでたらめ等は、綺麗な声の歌声・本読みそしてもの静かな身のこなしなどは本町勢にかなわなかった。それを安沢先生は差別して接しているようだとも僻んで考えた。これも身の程知らずに、・・・。ただ遊び時間と体育、さわぐことでは町校組が断然優勢だったのではなかったか。 こんな子供らを先生はよく導いてくれた。 今、数少ない当時の色あせた写真を見るにつけ、戦後の混乱期の中、食料も、物資も、ましてろくな文房具もなかった時代の小学生でありながら、それでも一通りことはやってくれたと感謝している。 クラスで取っていた少年雑誌の組立付録、パンアメリカンの飛行機やエンパイヤービルの紙の模型が頭上の棚を飾った。教室脇の屋根に上がって叱られたあと「ビルマの竪琴」を読んでくれた先生の話に聞き惚れた。この続きはまた後でとの先生の顔が涙目に潤んで見えた。 三年間の担任中に先生は子供が生れた。六組の伊予部先生や代理の杉本先生らが私達のクラスを見てくれた。その時はやはり気が抜けたような気もした。またおっかない安沢先生を再度見たとき、私たちはよろこんで歓声を上げた。 今こうやって半世紀前のことを思い出しているのだが、他のクラスメートはどんな思い出があるのだろう。どんなクラス、どんなイメージを安沢先生に持っていたのだろう。そんな感想を元・安沢先生はどんな回想に耽り、六十路後半の嘗ての教え子に当時の実情・感想を述べてくれるのだろうか?・・・ あの当時は、現在問題になっているいじめ・虐待も、不登校も、通学時の交通安全も、殺傷沙汰も、校内暴力も、体罰等の話題なんかあったのだろうか? 近日集まるこの六年七組のクラス会前に、自分か母親か知らないが、いまだにとっておいた当時の絵や習字、そして小さな藁半紙状の通知表、卒業証書などを取り出して眺めている。それでこんな駄文が拙文となり、いたずら書きをしてみた。イタズラ友達だった級友に会えばまだまだつきることなく回想談、今だから話そうなんて話題が出てきそうな小学校の時の思い出である。 賛成を得られれば、皆さんから原稿を募り「思い出の文集」を発行し安沢先生の回想録をも添えて村上小学校の激動の歴史の一頁の端くれにでもしたいと思っている。 由緒ある二つの小学校が合併した新制小学校に転任され、始めての卒業生を出した往年の名物先生・安沢先生であり、その教え子の子供たちであるから。 |
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昭和一六年四月二十日 | ||||||||||
皆さん!こんにちは!! 春爛漫の今日の良き日。本当に懐かしい顔ぶれが揃いました。 特に年をお感じさせないご壮健な我が小学校時代の恩師安沢先生はじめ、あの五十数年前、共に元気いっぱい遊び・さわぎまくったクラスメートの方々、遠いところからもよくぞ参集してくれました。厚くお礼申し上げます。 「故郷は遠くにありて想うもの、近くにありて慈しむもの」といわれておりますが、これからの一時、遥か昔にさかのぼり、昭和二十五年三月卒業の町立村上小学校六年七組のクラス会のスタートであります。 不肖私、コンドウマモルがこんな冒頭の挨拶をするとは、あまりにも光栄であり、また大変恐縮しているところであります。 まず始めに、残念ながら夭逝され、今は天国にいてこの会に出席できないクラスメートだった方々へ、ご冥福を祈り黙祷を捧げたいと思います…黙祷…。 懐かしき人々との再会のこの場、この席は木村マサちゃんはじめ主として女性の有志の方々が計画、連絡・召集していただきました。そのご苦労に報いるためにも、限られた時間ではありますが、精一杯子供時代に戻り、思い出話に耽り、より一層有意義な「還暦をすぎた者同士が、我が恩師を囲み、忘れかけていた我が小学校時代を想う会」にして頂きたくお願いして開会の挨拶といたします。 |
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昭和一六年四月二十五日(於:谷川屋) |
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