2012年4月号 | ||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.130 |
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池之端 鷗外荘から 湯島 東京新潟県人会館へ -無縁坂45年目の邂逅ー |
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平成23年12月10日に東京村上市郷友会主催の『三面川の鮭を食べる会』が上野池之端の水月ホテル鷗外荘で、 120余名の参加で開催されました。昨年は日本中、大変な年でしたが、私にとっても、この鷗外荘も含めた、湯島、池之端といった上野界隈での体験は、別の意味でも感動的でも有りました。今後、郷友会が鷗外荘でも聞かれる様ですので、その時の散策の参考にと、当日二次会の東京新潟県人会館に向かう途中再訪した史跡を紹介したいと思います。 |
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温泉銭湯『六龍鉱泉」 |
鷗外荘と六龍鉱泉 | |||||||
森鷗外(林太郎)は、文久2年2月、今の島根県津和野で誕生し、10歳で上京し思想家で同郷の西周邸に寄宿し、その後19歳で東京大学医学部を卒業します。卒業後陸軍に軍医として入省し、22歳から26歳までドイツ留学します。27歳で海軍中将赤松則良の長女登志子と一回目の結婚をし、赤松家の持家に住みます。そこが現在の鴎外荘で、ここで明治23年『舞姫』等が書かれました。 この鷗外荘は温泉でも有名です。上野で温泉とは意外ですが、重炭酸ソーダ泉の黒湯で、近くの温泉銭湯『六龍鉱泉』は外観も貫禄があります。 |
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東大医学部『鉄門」 『無縁坂』表示板 |
無縁坂 | |||||||
鷗外荘を出て不忍通りを湯島方面に進むと右側に『横山大観記念館』が現れ、さらに右に曲がると、あの無縁坂の登り口にぶつかります。 無縁坂は約100年前に書かれた鷗外の小説『雁』の舞台であり、坂は左に旧岩崎邸の崖があり、右には今はマンシヨンや保育園になっていますが、当時この坂の途中のしもたやに金貸屋の妾(お玉)が住んでいました。その坂を散歩で通る医学生(岡田)との出会いのお話です。 私はこの小説を二十歳の頃から読み始め、何度か読んでいるのですが、実際に通って感動したのが昨年9月で、知ったきっかけは、郷友会を鷗外荘で開催すると知り、地図で調べた時、偶然見つかりました。実に45年目の邂逅でした。坂を登り切った所が東大医学部『鉄門』で場所は当時と若干違っている様です。 |
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都立旧岩崎邸 | ||||||||
無縁坂を下り右に曲がった所が旧岩崎邸です。三菱財閥の創設者岩崎弥太郎が越後高田藩中屋敷を買い取り、長男久弥が設立したものです。 この庭園には昨年4月に、定年退職した会社が毎年三越本店で開催して頂く昼食会終了後に、同期で訪れました。 入口から坂道を登ると、まず巨大な洋館が出現します。外観もさることながら内部も豪華な造りで、二階には洋画に出てきそうなベランダも有ります。洋館に続き和館が有り、日本的な庭が廊下から見る事が出来ます。広い芝生の方の庭に出ると離れ屋的に撞球(ビリヤード)室が有り、奥の方の巨大な雪見灯篭等を見ると大財閥の屋敷跡で有ることが認識されます。 |
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東京新潟県人会館 | ||||||||
旧岩崎邸の出口の坂を下り湯島方面にしばらく向かうと左側に東京新潟県人会館が有ります。郷友会の二次会はこの会館の郷土料理『朱鷺』でよく行われます。 新潟の味が楽しめます。昼は定食も有る様です。 |
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以上、平成23年に上野界隈で、私が体験しながら思った事は、新幹線が出来、終点が東京駅になっても、私の年代は上野が東京の出発点だと云うことです。上野や所謂「谷・根・干」及び湯島については小川糸さんの「喋々喃々」(ポプラ文庫)に詳しく描かれています。 その上野駅と村上駅とを結んだ線路が上越本線と羽越本線でした。羽越本線の電化は昭和47年8月5日 新津―村上間が直流で、村上―秋田開は交流で完成しました。村上と岩船の間に分岐点があります。 東京から村上に帰る時、電車が岩船を通り山居の踏切を過ぎた分妓点に懸かる時(多分、今でも)一瞬車内が停電になり、そして右側の車窓にお城山が見えてくると村上です。 |
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