2012年10月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.136 |
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故郷・村上そして祭り |
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昭和25年が私の生まれた年です。生家は寺町にありました。村上は静かな城下町、お城山、三面川があり、一足伸ばせば岩ケ崎で遊ぶこともできました。「うさぎ追いし」で始まる、文部省唱歌「故郷」の世界が、まだ村上にはいくらか残っていたように思います。 私の場合、それに加えて7月7日の村上祭がありました。子どもから年寄りまで、年代を問わず参加できる祭りでした。(ただし、当時は男性だけでした。)小学生の時は太鼓と鉦、卒業すると笛をやりました。6月に入るとシャギリ囃子の練習が始まり、大将の6年生にはしごかれたものです。子どもの多い時代でしたから、レギュラーになるには競争があり、練習にも熱がはいりました。また、子どもの自治らしきものがあって、大人は滅多に練習に口出ししなかったように思います。練習のおかげで鉦太鼓もあるレベルまでには届いていたと思います。それでも祭り本番になると、お酒の入った大先輩に「違う、違う、こうやるんだ」と叱られやり直しさせられたものです。 村高は本祭の日は早上がりにしていたかと思います。「祭りに参加するものはいるか」と先生から声が掛かり、勢いよく手を挙げたこと覚えています。面白くて仕方のない時期だったのです。 体が覚えているものがあります。オシャギリ屋台は、顔を近づけると独特の香りがしました。堆朱の漆の匂いやら提灯の和ローソクの匂いやら、車の芯棒に巻いたビンツケの匂いやらが、場面毎に主役を替えて立ち現れて来ます。また、祭りが終わり疲れきって床についても、耳には笛と鉦太鼓の音がいつまでも鳴り続けていました。その時の何とも物悲しい気分、今でも思い出されます。それくらい入れ込んでいた祭りですが、高校を卒業してかなりの期間ブランクがありました。再び祭りに参加するようになったのは30代の後半です。町内からのお誘いをいただいたことがキッカケでした。いらい二十数年、寺町でお世話になっています。その間に両親は亡くなり、生家は取り壊して今はありません。それでも、懐かしい人との再会を求めてほぼ欠かさず通い続けました。中高生の時は笛に熱中していたのですが、大人になってからは、すっかり手木(てーぎ)にはまってしまいました。今は、手木に入るのが祭りの華だと思っています。この時盆唄を唄いますが、これは年季がものをいいます。味わいが違ってきます。村上は二輪の屋台なので、上下の動きをコントロールする分、手木の負担が大きいのです。盆唄で気持ちを揃えるという知恵はこの屋台の構造から生まれたと考えています。実際、唄がないと手木はしんどいものです。さて、とりとめもなく祭りのことなど書きましたが、村上の人情の話でまとめます。故郷は、私のようにいわば故郷を捨てた者も、祭りに帰ればいつも暖かく迎えてくれます。本当にありがたいと思うのです。繋がりの希薄な東京に住む私にとってこれは大変な驚きでもあります。祭りの日は法被を着ていたら同じ仲間というのもいいですね。親切で骨惜しみしない風土も残っています。村上は人情(なさけ)の町をキャッチフレーズにしています。是非この眼に見えない無形の財産をこれからも大事に育てて欲しいと願います。村上の祭りも村上の持っている観光資源も立派なものです。それを活かす力は村上人の心なのだと思います。私も離れたところからではありますが故郷応援団の一員として一層心を向けて行きたい、そう願っております。 |
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