2012年1月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.127 |
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「朝日村っ子」 |
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母が19歳の時、村上六斎市の日、身重の体でリヤカーに付いて朝日(石住)から歩いて市に向かったところ、途中で脂汗をかいてしゃがみこんだそうです。当時救急車などはあるはずがなく、富樫医院に担ぎ込まれたそうです。結局早産で、五百匁?(今で言えば1800グラム?)の子供が産み落とされたそうです。母親は助かるが、子供は小さいし、早く生まれたので助からないと言われ、父は母と虫の息の子供を連れ帰ったそうです。当然母乳もなく、おかゆの上澄みを舐めさせても飲まず、日ごとに弱っていったそうです。 本家でヤギを飼っていたそうで、その乳を飲ませたところ!ゴクゴク(?)飲んだそうです。その子供が私です。父親が言うには『豆の葉っぱくらいしかなかった』と。もう少しいいものに例えてくれないものか?豆の葉っぱは、30センチに満たないくらいです、その私が、この歳まで生きているのですから、幸運!、人生丸儲け!としかいえません。 私は中学校に入るまでは、親妹弟と離れ、本家で過ごしました。中学校では三面小と茎太小と一緒になり、70名で、はじめてクラスが二つになりました。中学2年のとき、新潟地震がありました。高校は村上高校、受験勉強のひとつもしないで、最初の授業で『六歌仙』を聞かれ、スラスラ答えたクラスメートに驚きました。卒業後、新潟に就職し、1年で辞め19歳で上京、夜学に通っている途中で公務員試験を受け、現在に至ります。職場は異動があり、今が11箇所目となります。(昨年定年退職後、現在「再任用」として勤務中)子供は二人、長男は親の後を継ぐ(?)と公務員に、女の子が一人。長女は公務員を拒否、作業療法士に、男の子二人。実際、二人の子供を保育園に預けて働くのはちょっと大変でした。子供に熱があっても『何かあったら連絡してください!』と預けたことが、結構ありました。39年間、今は早期退職する人が多い中、定年までなんとか無事(?)に働けたことは幸せなことだと思います。 故郷の朝日村は自然がいっぱい!。今でも鮮明に記憶があります。春、雪の中から芽吹く感動を味わい、わらびを摘みました。夏はどうしても、瀬波や間島、笹川流れの海が見たくなります。母が漬けてくれた子茄子真似て漬けます。栃餅は、母から教わりましたが自分では栃の実からは出来そうにありません。苦みばしった味が子供時代に引きこみます。冬、吹雪の中、吹き溜まりによろけながら、息も出来ないくらいになりながら学校に通ったことは、今でも忘れません。私の中には、鷲ヶ巣山の頂上から見た壮大な景色、三面川の流れ、海岸のあの海の色、どんよりとした冬の空、他では味わえないご飯の味、いつ帰っても優しく迎えてくれる人々の情、懐かしい独特の方言……等々、があります。私は、自分が窮地に陥ると、『きみこ、がんばれ!』と心の中で自分に言い聞かせます。私には、生まれながらの強運と、故郷すべてが援護してくれる「朝日村っ子」の力が備わっていると(勝手に!)思っているからです。新聞の人生相談を欠かさず読みます。私の丸儲け人生をしたら、大抵の事は楽になれると思います。なにしろ、本家のヤギがいなかったら、私は生まれてすぐ絶命していたのですから。 |
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