2011年7月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.121 |
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浜なすに寄せて |
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潮かをる 北の浜邊の砂山の かの濱薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや 石川啄木 「一握の砂」より 小学校は当初海の近くにあった。砂防のための松林が間近に広がり、潮鳴りと松籟の聞こえてくる学校だった。 先生が、子供達を浜辺に連れていってくれることもあった。粟島が間近に見える砂浜で、足を砂だらけにして遊んだ。なだらかに起伏する砂丘には、所々に浜ぐみや浜なすなどの海浜植物が群生していた。そして初夏になると、刺だらけの藪のように見えていた浜なすの繁みに、芳しい香りの花が、明りを灯したように咲いた。その優しく、鮮やかな花の色は、彩りの少ない浜辺の風景の中で際立っていて、子供ながらも惹かれるものがあった。 今でも、旅先などでこの花を見かけると、故郷の浜辺の潮騒の音が聞こえてくるようで、思わず足を止めてしまうのである。 私が育ったのは、旧神林村である。音を立てて流れる荒川の清流、稲架掛け(はさがけ)のためのあの独特な形の木が畦道に並ぶ広々とした水田、松露や野うさぎを育んだ美しい防砂林と、その向こうに広がる日本海が、子供の頃の故郷の原風景である。 高校は、村上高校に通った。村上の町は父の実家のあったところで、二之町に住んでいた叔母には何かとお世話になった。冬の夜、叔母の家で百人一首をしたのも、温かな思い出である。 高校では登山部に入部した。トレーニングはお城山で行われた。あの七曲を山頂まで駆け上がるのであるが、時には重いリュックを背負い、喘ぎながら登ることもあった。山頂で汗を拭いながら眺めた風景が、今も脳裡に浮かぶ。 誰の胸にも、未来への夢や期待がいっぱい詰まっていた。お城山の広い空は、そんな若い夢を羽ばたかせてくれたところでもあった。高度成長のもと、東京オリンピックが開催され、国中に明るい高揚感の漲っていた時代である。 「あの光るのが 三面川・・・」と、誰かが「千恵子抄」の一節を真似て言ったのが、昨日のことのように思われる。皆よくしゃべり、よく笑う、気のいい仲間たちだった。彼らと共に汗を流し、自然豊かな越後の山々を歩いた日々は、心に深く刻まれている。 人生の最も多感な時期に、のどかな城下町で学び、よきクラスメートや山の仲間達に出会うことができたのは、本当に幸せなことであった。あれから長い歳月が流れたが、あの頃のことは、一際明るい光芒を放って、私の人生を満たしてくれている。 今、あらためてこの大震災で失ったものの大きさを思うとき、故郷の美しい山河が、懐かしい人々の営みがそこに在ることが、しみじみとありがたい。それだけに、被災地の一日も早い復興を切に願うものである。 |
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