2011年3月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.117 |
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「田 舎」 |
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田舎を出て来て、早37年が過ぎました。 振り返れば昨日の事の様に思われます。お袋が、大皿小皿、茶わん、箸と新聞紙に包んで割れない様に布団の中に突っ込んで、布団袋と一緒に宅配で東京に送ってくれたのが思い出されます。 東京に出て来て、昼は新潟に本社が在る土木会社の東京支社(市ヶ谷)にアルバイトで入り、夜は王子に在る中央工学校(夜間部)土木科に通いました。当時は、見る物聞く物全てが珍しく驚きの毎日でしたが、振り返る暇もなく、朝から晩まで電車に揉まれて山手線を半周する日々を送っていました。 高校(荒川分校)も定時制高校でしたので一週間の半分はアルバイトに明け暮れる毎日でした。 当時、親父が東京に出て来るとよく私のアパートに泊まって帰るのが常でした。夫婦で来ては東京見物に歩く事もありました。 東京の街中を車で走った時に親父に「お前こんなに車の多い、混んでる道をよく走れるなー」と感心された時もありました。 親父と二人で、桜(馬)肉を食べに夜の浅草の街に繰り出した事も、東京に、箱根に住んでいる叔父、叔母の家を泊まり歩いたのもこっちに親戚が有ればこその楽しみであったのではないでしょうか。すべてが親父との思い出の一ページです。 東京に出て来た初めの頃は、よく田舎に帰りましたが近頃では正月(冬)も寒いせいかほとんど田舎には帰らなくなりました。 子供達が小さい時は、夏休み(お盆)によく田舎に連れて行きましたが、大きく成るにつれてお盆もだんだんと帰る機会が減ってきましたが、子供達は、田舎の爺ちゃん、婆ちゃんに孫を見せに休みを利用して、嫁さんと子供を連れて私の田舎に帰ります。 今は親父も亡くなって居ませんが、お袋が未だ元気で居ますので何時でも帰る事が出来ると思っています。もしも田舎の親が居なくなったら、騒ぎ事(冠婚葬祭)でもない限り帰らなくなるのでしょうか・・・。 私には、姉、兄、弟が実家の近くに五人も住んでいます。私には「田舎」があります。私の子供達には「田舎」は何処に在るのでしょうか。ましては孫達の「田舎」は何処に在るのでしょうか。 いつだったか田舎の兄から「お前達がいつでも帰って来られる様に俺は、先祖代々の家を守っているからいつでも帰って来い、そして姉、兄、弟の輪を大事にしたい」と、一言いった事が有りました。 私自身、学生時代そしてサラリーマン時代を14年間過ごした後に、会社(有)石田石材を起こしました。 今年で23年に成りますが、バブルに踊らされ、バブル崩壊に泣かされどん底も経験させられました。 自分自身が耐えられる力が無かった事は認めざるを得なかったのは事実です。未だ若かった歳も有ったのでしょう。今だから話せますがあの頃は仕事も有り儲けさせても頂きました。高級自動車に乗り、週に1~2回の接待ゴルフ、夜は得意先との食事会と、仕事と接待とのある意味で忙しい毎日の様に記憶しております。 バブルがはじけてから、長い不況が続いていますが、振り返れば「田舎」の兄弟には大変迷惑を掛けておりました。37年間お米を送って頂いていました。自分でお米を買ったのは、数えるほどしか記憶がありません。 親父が亡くなった時も、「お前らの米は毎年獲ってあるから無くなる前に電話をよこせ」の、優しい兄からの言葉に感謝と「田舎」がある事の喜びに感謝に絶えません。 この年に成っても、「田舎」の有難さには、頭が上がりません。未だに「田舎」には、迷惑掛けっぱなしで、親孝行も、恩返しも出来ないで「田舎」には、足を向けて寝れません。 追伸:私事の我がまま話をお許しください。「田舎」の在る事の有難さを大事にして頂きたいと思います。 |
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