2010年10月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.112 |
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「遠い日の村上のこと」 |
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私は昭和19年の春、村上町立国民学校に入学しました。翌20年の夏、世の中が目まぐるしく変わりました。 瀬波の浜へ、新潟港湾沖合の日本軍敷設の機雷を避けて米国進駐軍兵士、車両等が続々と上陸しました。好奇心旺盛の母に連れられてハマナス咲く瀬波の砂丘の上で、目を丸くして米軍上陸用舟艇が波打際に着するのを見ておりました。多数の船の前部扉が左右に開くと、次々と湧き出すが如くジープ、戦車、キャタピラのついたトラック等などと、背丈のでっかい兵士達が大勢出てきました。母と子供の私は言葉も出ずに見守っておりました。かつて瀬波の町には、戊辰戦争の折、幕府体制側に忠誠し、奥羽越列藩同盟下に在りし村上藩へ薩長藩から成る官軍勢が追討の進軍をしてきたが、米国進駐軍の上陸は、それ以来の事では無かったのかと思います。 この事は、我が祖父が80歳の折までに書き残した「我が家の歴史」中に伺え、祖父は「余、幼少ノ折、母ヨリ聞キシニ、越後路庄内ハ西郷隆盛閣下来リ征服サセ官軍乗込ミ村上城陥落ノ折僅カ数日前、赤児ノ余ヲ母ハ負イ召使ノ女タチト共ニ海府村野潟ヘ避難ス兄ハ六歳、母ト随ヘ走行セルト言フ」と記していた。進駐軍が上陸し、敗戦の事実を思い知らされたあの時代が記憶から消えない。そして終戦直前の村上の町並みの家々の門前には軒並み英霊となり帰らぬ戦死者の塔婆が林立していたのです。大人たちの「戦死者の遺骨箱の中には、髪の毛と爪しか入っていない」等の話を生々しく聞いた。鉄道官舎の空き地にはルーズベルトとチャーチルの板人形が建てられていて、大人たちが竹槍を突き付け訓練をした、「焼夷弾落下」と叫び、バケツリレーが行われた。終戦により、防空頭巾や防空壕にさよならでき、灯火管制もなく、私たちは三角ベースの野球に興じられ、世の中を明るく感じた。教科書の薄い頁はあちこち墨で塗りつぶされていたが、女子と共学、ローマ字も習え楽しくなった。我家の近くの宮本脱穀農機具工場の慰安演芸会が開催され、娯楽を味わった。 「アラエッサッサー」の掛け声で笊を持ちドジョウを掬い、立ち止まっては赤い褌を持ち上げ顔をふいたり、客席に尻を向け褌をしめ直したりの、下品さを売る男性演者の踊りも笑いを誘った。物も食料も少ない時代に、笑いは心を癒し活力を与えてくれた。38年間の神奈川県警察官を勤め終り、県警本部嘱託職を勤めながら、定年後を心和やかに生き抜こうと趣味道を模索していて、カルチャーセンターの「どじょう掬い踊り」講座を見つけ、以来安来節保存会東京支部に籍をおき踊り修行10数年、今は同好の士と練習会や、老人ホーム、ケアセンター、地域行事の場等で出演している。演ずる老人の私と見守る老人世代との間に笑いのキャッチボールが生まれた時は生甲斐を感じます。 現在、村上を離れ50余年、神奈川県に住んでいますが、太平洋戦争下、村上から出征し生きて帰郷できなかった数多の人々の思いや、その時代に在り自分が体験してきたことを、鮭が遡上し、北限の茶甘き村上、カンカンジキジンと鉦や太鼓の音なつかしき祭が続く村上の時代の変遷の裏に埋没させてはならず、語り継ぎ、書き残しておかなければならない事と想う年齢に到達しました。 |
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