2009年9月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.99 |
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祖 父 と 私 |
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勤勉家の祖父、藤吉が村上町校を卒業したのは明治24年、法律、医学、文学などの書籍が土蔵二つに積み上げられていました。農業の傍ら独学で勉強していたようです。戦後の農地改革では小作人代表の浅沼稲次郎を散々攻め立てた弁論家であり、また無料報酬の診療医をしていました。医者の道具一式は戸棚に揃っていました。 私が村上高校に入学した昭和33年には80歳を越えておりながら山仕事を日課としていました。知識力旺盛で新聞に出てくるカタカナ文字(英語)を克明にノートに取っていました。 剣道に打ち込んでいて大学受験のろくに勉強をしていなかった私を家族が同意する道理が無かったのですが、祖父の一言、裏山の松林を売ってでも希望を叶えてあげたいと。 大学3年生のゼミナール活動で猛勉強のある日、徹夜疲れで机に伏せて寝入っていた。はっと気が付いたら祖父が見下すように立っていた。私は遠い所から大変だったねと言い、お茶を淹れるからと階段を降りかけ、振り返ったら姿が無かった。 翌朝、大家さんから渡された速達は親父からで、時間が出来たら祖父の具合が良くないので帰省するようにとしたためてあり、急ぎ夜行列車で駆けつけたら、昨夜亡くなったと辛い別れになりました。 多くの知人が海外活動をしていたので、国際貿易分野を望んだ。昭和40年卒業と同時に中堅の機械専門商社に入社。国内営業を経験した後、成長著しい会社は選抜して、海外駐在にさせてくれた。昭和45年米国シカゴに赴任、2年間営業活動をしました。 剣道を再開したきっかけは、42歳で会社を変え、身体ともにリフレッシュする心算で始めました。所属した世田谷剣道連盟には、立派な先生が居られ、92歳で活躍されている小川忠太郎、大野総一郎両9段範師、それに矢野博志8段範師、先生は以降私の師匠です。 2回目の海外駐在は、平成3年(1991)で英国オックスフォードに新会社を設立するためでした。日本の景気はバブルがはじけ長い不況に突入することに為りました。 日本の大企業は当時ヨーロッパに家電、半導体、自動車など海外進出を進めていました。 新規に会社を作る事は非常に大変で顧客開拓から、人材採用、会社経営あらゆる面で気を抜けない日々でしたが、遣り甲斐を感じていました。 この仕事が日本とヨーロッパとを結ぶパイオニアの役割だったからです。 1993年ヨーロッパ共同体(EU)が誕生しました。そしてEU加盟国共通の安全規格が制定されました。CEマーキングは製品が安全規格に適合している事を示すマークであり、このマークなしにあらゆる設備機械、機器のEU域内での設置は出来ないことになりました。 わが社の現地エンジニアとスタッフ等は、いち早くCEマーキングに精通しEMCテストとあわせ独自で認証できる資格を得ました。基本的にはホンダ、トヨタ、日産及びその関連子会社の英国生産工場は設備が日本から移管されています。 莫大なCEマーキングの要求がわが社に殺到し、思わぬことから設立4年目にして会社経営が軌道に乗りました。 もちろん日本国内で申請は出来ますが、莫大なお金と煩雑なレギュレーションがあるため、多くの機械メーカーがわが社に依頼してきました。取引内容は設備機械の大小に関わらず輸入、運搬、設置そしてCEマーキングの貼付適合宣言、一貫体制で請け負っていました。 小規模ながら我が社は自動車会社の生産体制を支えてきました。 剣道を通じて英国剣道家との交流が深まり、フランス クーベルタン男爵記念館で5段、ベルギーの首都ブリュッセルで6段への昇格、ロンドン無名士道場(ホーム道場)、オックスフォード大学では講師として学生を指導し教え子たちは世界で活躍しています。 12年間も長期間駐在できたのは会社経営が巧くいったことと、剣道を通じて多くの現地人と交流を持てた事と感謝しています。 尚、七段は、新潟市鳥屋野スポーツセンターで昇格し教士の称号も得ました。 退職後は地元の女子大学の講師と、ボランティアで世田谷区、町田市、相模原市で剣道指導、審判等をしています。一方、国際社会人剣道クラブでは、来日する剣道家の指導と時々は海外指導に出かけます。 母校村上高校で受けた厳しい御指導は負けん気魂を与えられ、そして祖父の残した言葉“大胆に為るべし”は私の人生の宝物です。 先日帰省の際、村上に武道館設立の呼びかけポスターを見ました。武家の町にふさわしくまた青少年育成のために是非達成できますよう応援しましよう。 |
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