2009年6月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.96 |
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故郷(ふるさと)、村上への想いと共に |
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連休に久しぶりに故郷、村上に一人で帰ってみた。車窓からしだいに大きく近づいてくる鷲ガ巣山を見ながら、子供の頃味わったことのある遠足前日ような期待感が懐かしい想い出ともに蘇ってきた。 そして村上駅に着くと同時に一呼吸すると、若葉の香りが運ばれてきて新鮮な空気で全身が満たされた。いつも電車から降りる度に深呼吸しては故郷の川に戻ってきた鮭はこんな気分なのかしらと、想うのである。 今回、原稿の依頼を受けたのを機に昔を振り返ってみようとホコリまみれのダンボールの中から昔のアルバム探し当てた。その中から写真を一枚選んでみたのが、この瀬波の海岸でのスナップ。 私が高校時代、AFS交換留学というまだ日本では留学が珍しかったころシアトルから17歳の女子高校生を招き、ホームステイをさせたことがあった。 当時、瀬波海岸の砂浜は白くて堤防の果てまで広がっていて、その砂浜で留学生を交えてスイカ割りなどを楽しんだ。今はもう他界してしまった兄と姉が東京から帰省し家族で岩ケ崎をバックに撮ったものである。 そのAFS 生はウイックという名前で皆から親しく呼ばれ、下度山をバックにフォークダンスを楽しんでいる写真や、村上祭りにガイジンが来ていると話題になり、新聞に掲載されたものである。もうあれから40年?? ついこの間のような出来事として覚えている方もいることだろう。 その留学生の紹介をきっかけに私は、地元の高校を卒業後シアトルにある二年制大学に入学した。故郷の風景を懐かしく想いながら過し、そして卒業して二年ぶりに帰国。村上へは上野から ‘ときで’4時間かけて電車に揺られ、その時も同じように、鷲ガ巣山が懐かしく出迎えてくれた。 夏の香りのする村上駅の空気は新鮮で美味しかったことを覚えている。 故郷、村上を離れ2年間のアメリカ滞在、また8年間の夫の赴任によるロンドンでの生活、帰国後は十数年の都会生活などがある。シアトルではマウント、レイニアに映る夕日、ロンドンの我が家から見えるピンク色に輝くような夕日、都会のビルの間にちょっと見せるオレンジの夕日など、その度に日本海に沈む夕日も同じ太陽なのだ、などと想いを故郷走らせたりしたものだった。 第二の故郷はシアトル?ロンドン?東京?横浜?と懐かしくそれぞれの土地を想うのであるが、幾度と村上に一時帰国を含め帰郷するごとにやはり、その恵まれた自然が私を育みエネルギーの原点となってくれていることを実感するのである。 しかし、最近、随分と都市化や道路開発も進み、山々など自然のアウトライン以外は昔の様相を重ねることができなくなってきた。山肌は削られ、建物が建ち、砂浜もなくなり、蓬やタンポポの咲いていたあぜ道は舗装されて車道となり、我が家から眺めることのできたお城山の桜も家々の屋根で空が狭まり、都市と同じ大型の看板が目立つこのごろである。 それは40年間の進歩(?)利便性を求めてきて開発された結果であるのであまり悪くはいえないのであるが、いつも変わらぬ姿を求めてしまうのは故郷を離れた者がふるさとに想う勝手さなのかもしれない。 しかし、たとえ故郷の景観がどう変化しようと、故郷を想う人々の心はいつも豊かなように思える。村上の自然をエネルギー源としての思いやりの心,村上人としてのきずなを大切に常に活動をされている同郷の方々からは不思議な幸福感をいただくのである。 今の村上に住む子供たちも、私達が子供の頃経験したような自然の中での遊びを大切にして、まだまだ残されている自然の中で自由にそしてお互いの想いを大切に育っていってほしい。そして、私のようにどこに住んでいても故郷を誇りに思えるような大人に巣立っていってほしいと願うこのごろである。 今回、瀬波温泉に老いた母と数日宿泊し、懐かしい汐鳴りを聞きながら過した。 母は若く瀬波に嫁ぎ、教員として生涯、子供達に接し、子供達を愛し育ててきた。そして50歳半ばになった私を、いつまでも瀬波の子供のように迎え入れてくれるその包容力と優しさも、この汐鳴りの鼓動が生命力となり、村上の自然の中で生かし続けてくれた贈り物であると、感謝するばかりである。 このところ、私は、ウィービングというロンドンで習ってきた手織り手法で風景をモチーフに制作を続けている。村上の豊かな自然とその自然が次の世代にも深く愛され続け、受け次がれていくことに願いを込めて今度はふるさとをテーマに織り続けてみたい。そして許す限りの故郷訪問、村上出身の方々と接することで故郷への想いを募らせ、エネルギーをいただくことを楽しみに過したいと切に願う日々である。 |
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