2009年5月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.95 |
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祭り好きの遺伝子 |
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屋台の綱につかまったが、大きく揺れて恐ろしかった…これが私の祭りの初体験。当時女は不浄の者と屋台にさわることが出来なかった筈だが、祭り好きの父が、つかまらせてくれたのだろう。その時着た小若の半被は、空色羽二重、肩から提げる鈴と帯と火の用心の中着がセットで従兄のおさがりだった。 九才年下の弟が三才位の時、又それで屋台を引張り、私が付添いで嬉しかった。庄内町の屋台は大石蔵之助を乗せた「にわか」。父から戦前の町内の若い衆が、屋台を作る事を夢みて奔走したことや、戦争のため、お祭りも出来なくなり、残念だったことを何度も聞かされた。 戦後昭和二十三年、村上大祭も再開されたが、やはり女子の参加はなく、祭りの時ばかりは男子が羨ましかった。それでも青い蚊帳の中で、お囃子の稽古を聞き、晴れ着のことを思いながら、祭りを待ちこがれた。 六日の宵祭り、早めに行水、夕食を済ませ、単衣の振袖の着物で、妹と一緒に父に連れられ、お羽黒様へお参りに行く。石段はすごい人混みだった。最近はあまり人混みはないと聞いたが、これも時代の変化だろう。山から見下ろす景色は、桜提灯が並び美しかった。 帰路の町屋は店を片付け、屏風を廻し祭り客をもてなす座敷に変わり、華やいでいる。大町小町の通りは露店も並び胸がはずむ。 帰宅し早々に寝床に入る。夜中十二時過ぎ、先太鼓の音が聞こえ、それはヤレカカオキレ、オコママフカセ、と聞こえる。母は起きだして赤飯を蒸かしていた。間もなく、威勢のよい傘鉾の音、父は毎年その役を志願していた。 続いてイーヤーヘーと荒馬の少年達の声に、未だ明けやらぬ暗い戸外に飛び出すと、何所の家々も桜提灯に明かりがともり、弓張提灯、手丸提灯が揺れる中、床几持ち役の人に付き添われた十四騎の荒馬を見物していると、もう久保多町の屋台が庄内町の入口迄きている。裃姿で太鼓を打ち、掛声をかける少年達、楽屋の三味線や笛のお囃子もこの時は、他町のチャンチャンジキジンと交わらず、住吉の景をあしらった白木の屋台も、本祭りの到来を告げて荘厳にも見え、私の一番好きなハイライトだった。 さてその後、弟が青年会に関係している頃、上屋台を作る計画が再燃し、町内の人達が毎月積立を始めたが、庄内町は荒馬を維持していかなければならない上に、屋台を持つことは、住民の負担が大変だと反対され頓挫した様だった。それでも有志の情熱で、平成十一年に瓢箪を乗せ物に白木の上屋台が出来上がった。その後塗り彫刻が施こされ、京都の人形師が造った現在の鮎鯰図を乗せ、念願が叶ったが、まだ本当の完成ではないのだそうだ。後世に良い物を残そうという情熱はまだ続いている。 私は夫の転勤で、昭和五十年から新潟に転居したが、夏休みに息子が、従姉達の住む肴町の七夕屋台を引っぱり「楽しかった」と、当時の文集に書いている。小学四年生になる孫が五才の頃、朝町内だけでもと屋台を引かせたところ、すっかりはまり、羽黒町迄も行き、夜は肴町から大町迄も引っぱり、お陰で私も、子供の頃の祭り屋台を引っぱりたいと云う夢が叶った。そして現代は、女の子もお母さんも皆な参加しているのである。 孫はその後、自分の名前入りの庄内町の半被を作って貰い、大喜びで毎年お祭りと七夕祭りに参加している |
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