2009年3月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.93 |
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村上の思い出 |
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昭和35年、私は村高2年生でふとしたことで学校そばの空き屋敷に一人で住んでいた。 それは二学期の昼休み友達とプール脇で立話中、脇で作業している人に「手を貸して」と声をかけられたのがはじまりだった。 一段落してその人は夜逃げした家を引き受けたものの借手もなく、子供が入りこんで悪さをする、無用心で困っていると言うのである。 その頃、私は朝5時に起きて下関から汽車通学していた。当時それが普通だったが、更に家の前の映画館の騒音で勉強できないと父に村上に下宿させてくれとダダをこねていた。 私の家はハルピンからの引揚げで縁あって関川村に落ちついたがボンボン育ちの父には村の生活は大変だった。父を嫌っていたわけではない。化学や英語をよく教えてもらっていた。また村の野や山や川を遊び回って育った友達とは毎年笹川流れに一週間キャンプし楽しく過ごしていたが高二となると、将来を考えなければならなかったのである。 そんな折だったので空き家の持主に留守番に住まわせてくれるよう日頃の気持ちをぶつけていた。50年たった今でもよくもまあと思う。 突然のことで、その人も私の顔をマジマジと見ていた。高校生には無理、親も許してくれないと思うよとなぐさめてくれた。 帰宅して父に話すと反対した。母はそういう日が来ると思っていたと父を説得した。 父も渋渋挨拶に行ってくれた。私も神妙に聞いていた。迷惑をかけたら中止、やりぬく気があれば大丈夫、と割とアッサリ決ってしまった。 タマリ場にしない、時々見回るという条件で鍵をもらい、後は一人でやるしかなかった。 店は大町に面し、住居、離れが庭を配して連なる町屋風の大きな家だった。節電と安全の為、離れだけ配線する手続きをした。城山下の東北電力でも子供扱いではなかった。 免許取りたてだったがバイクで往復して布団や身の回りの物を運んで新生活を始めた。 奨学金で新発売の炊飯器とコンロを買った。食事は母が心配していたのでご飯と野菜と肉のバランスに気をつけたがやせてしまった。やがて面倒でチャンコにしたら太ってきた。 勉強はといえば誰にも邪魔されず思いどおりやれるということは本当に夢のようだった。しかし贅沢なもので人の気配の全くない静寂に耐えかね、人を求めて買物、風呂屋、散歩に無性に出かけたくなるのであった。 総菜屋、肉屋、パン屋、市場のおばさんたちと顔なじみになり、よくオマケしてもらった。竹の湯に行くとよく先生と顔を合わせた。戦後15年たったのに米軍の瀬波上陸の話を昨日のことのようにくり返す老人にも出会った。 今でいうジョギングで城山にはよく行った。 近所のザッシーという老犬と三面川迄行き、道に迷って皆に心配かけたこともあった。 そのうち近所の人も事情を察して、畑のものを自由に取らせてくれた。有難かった。それでも折角の御好意の大半はお断りした。親から甘え過ぎを厳しく注意されていたし、時間的に追われていた為である。 今、村高の跡は市役所に、周辺も一変した。お世話になった方も皆亡くなってしまった。人は老いると思い出の中に生きるという。 あれから50年、村上のあの一年半をよく思い出す。 |
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