http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001 2009年2月号

  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.92

初午の季節
稲垣 伸夫
 (いながき のぶお)
昭和26年(1951年)
      村上小学校卒業
NTT研究所に30年間勤務
光ファイバの開発等に従事


昭和20年代の村上大工町の町内
冬の風景



村上国民学校入学記念写真 
男女別々のクラスであった



村上小学校卆業記念写真 
終戦後男女一緒のクラスとなった



村上高校時代の同級生との写真 
高下駄での通学が多かった



高校2年秋の運動会での仮装行列
看板を持ってるのが筆者

 『ゴリショ! ゴリショ! オイナリサンノ ゴリショ!!』と太鼓の音に合わせながら、声を張り上げ、そりと一緒に歩いていく。
たしか、二月十一日に行われる『初午』の風景である。 そりの曳き手は小学校の上級生、太鼓は中学生が叩いている、四~五人の下級生は【稲荷大明神】と大きな字で書かれた≪のぼり≫を抱えて大声を出している、初午の隊列は寒空の中、町内を練り歩く。
 お稲荷さんの隊列が通ると,あちこちの玄関戸ががらりと開いて、その家のお母さんやお婆さんが、お供え物を手に外に出てくる。たいていは油揚げなのだが,餅、干したさつまいも、干し柿やするめなどというときもあって、それらを隊列に渡してくれる。 そこで隊列は『ハンジョ! ハンジョ! ○○ドンの ハンジョウ!』とその家の屋号を大声で叫んで、また隊列を組んで進んでいく。
 戦後数年になるけど食糧難は続いている。だからこそ、初午は子供達に魅力的なのだ。集会所に帰れば、残り組みが焼いてくれた餅や油揚げを、アチチッと醤油をつけながら食べられる。寒風の吹きすさぶ中を、震えながら歩いていくのも、その楽しみがあるからだ。
 『初午』の最大の魅力は、自分の家から布団を運んできて、集会所に泊まることだ。それは小学6年生と中学生だけに許されている。どうしてそうなのか、わからないが昔からの慣習なのだ。火の用心のためだと聞かされているがそうではあるまい。だって、泊まると火を使うからかえって危険な筈なのだ。 だから、夜遅くなると、大人たちが心配して見回りに来る。“どれ、ありがたいおもらい物だね“ と言って、するめの一本もかじっていく。
 大人たちが帰ると、待ちかねた最後の楽しみ始まる。美味しいもらい物をあれこれ食べながら、持ち寄った漫画を読み会い、トランプをする。将棋をする者もいる。わいわいガヤガヤ、子供達だけの世界だ。そして最後は布団に潜りながら、家のこと、将来のことなどをいろいろ話し合いながら、深夜に眠りにつく。
 
 『七月の村上大祭』、『八月の七夕祭り』は町を挙げてのお祭りなので子供達もそれぞれ役割を持って参加する。それは今でも継続している。しかし、上記の『初午』や『地蔵さま』は町内だけに限られた、子供達だけの催しであった。今はもう実施されていないであろう。
 終戦の年に小学校に入学して、中学校を卒業するまでの昭和二十年代、もちろんテレビのない時代、町内でよく遊び回っていたものだ。今から思うと信じられないような風景が目に浮かぶ。

 昭和14年に生まれ、20年4月に村上国民学校に入学。終戦を期に、国語の教科書を墨だらけにしたこと、また講堂に並ばされて頭から足先までDDTをかけられた記憶は忘れられない。3年生になった時、本町小学校と合併し、5年生の時、朝鮮戦争が勃発、次第に生活が安定してきて、学校での給食が楽しみとなった。  
 中学校は以前の本町小学校の校舎であった。昼飯は自宅で取り、午後の授業に戻った。3年の修学旅行で、初めて見る東京にビックリした記憶が鮮明である。32年高校を卒業して、横浜に出て、その後仙台、東京、勝田、そして平成になって東京に舞い戻ってきた。
 村上を離れて51年、古希を迎える年となっても、郷土は懐かしい!!


リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)

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上野 陽之助
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