2009年10月号 | ||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.100 |
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フクロウ達の旅立ち |
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古里を離れて半世紀、今も村上から届く岩船産コシヒカリを頂く毎日である。初冬の「塩引き・はらこ」はいつも待ちきれない故郷のご馳走だ。どれも美味しさは格別だ。 名古屋大空襲の始まる直前、母は生まれて間もない私を背負い父の実家、村上・二之町へ疎開した。戦後、勤務地の三重県・桑名市から戻った親父は、村上高校で物理・化学の教師となった。 東京の麹町・富士見町で生まれた母は6歳の時、関東大震災(大正12年)に遭遇している。お袋の父親(祖父)は司法省退官後、村上・飯野へ戻り、余生を送った。真夏には涼しい風が吹き抜ける快適な茅葺の古民家であった。その当時、茅葺の家はさほど珍しくなかった。お袋の母親(祖母)は村上・長井町で代々続く村上堆朱・漆器店の娘であった。 昨年3月に村上中学卒業50周年記念・同期会を開催して頂いた。ご尽力を賜わった地元有志役員には、誰もがひとしく心から感謝した。昭和33年3月の卒業生は407名、その日、瀬波温泉に集った【鮭っ子】は112名で、とても穏やかで和やかな雰囲気であった。 お陰で私も長い人生の空白が繋がったような気がした。久しく消息が途絶えていた多くの懐かしい友人達と感激の再会を果たすことも出来た。おもわずほっとするような心の安らぎも得られた。 そんな中、50年ぶりに会った幼友達との【ふくろう物語】は、光より早く私を童心に戻した。こんな時の酒は実に旨い。気の置けない古い友人と飲む酒はとても旨い。 中学生(12歳)の頃、臥牛山のちょうど牛の首根っ子にあたる部分、光徳寺裏山の頂上付近で大きな「ふくろうの幼鳥3羽」を保護した。羽黒口の光徳寺は藩主内藤候の菩提寺である。若葉がとても美しい頃であった。 幼鳥とは云え、生態系の頂点に君臨する猛禽だけある。嘴と足の爪はとてつもなく大きく鋭い。悟ったように半眼に構え、白く威厳のある風貌には近寄りがたい迫力があった。 その日を境に、ドジョウや蛙などの餌探しに追われた。放課後、近くの小川やたんぼを走り回った。終いにはカエルが近所にまったく見あたらなくなり、往生した。そのうえ毎夜、親鳥達がやって来るようになった。分散飼育していた家々の屋根で子ふくろうと大声で鳴き交わし、連日大騒ぎする始末と相成った。 困り果てた悪童達が鳩首協議、「放鳥止む無し」となった。「こうなるのは当然」と云わぬばかりの悠揚迫らぬ大きな態度で周囲を威圧しつつ、やおら前傾姿勢をとり、それから薄暮の中をゆっくりと、かつ軽々と次々に飛び去った威風堂々の怪鳥,その幻想的な光景は今でも忘れられない。緊張も緩み、丸刈り坊主達は押し黙ったまま、夕闇に吸われるように消え去った西南の方角をいつまでもボンヤリ見続けた。それから2~3年後、中学を卒業した我々には、それぞれの人生を歩むべく村上を離れる運命が待っていた。ふくろうの巣立ちは、我々自身にとっても、人生旅立ちへの予感と別れを暗示していた。当時はまだ、独特の調子で甲高く鳴く、鷹の声がお城山からよく聞こえた。のどかで実に好い時代であった。 ふくろう事件から3年後、例の幼友達は新潟市内の高校で、私も横浜の慶応高校で学んでいた。そして10年後には、東京・丸の内へ通勤する毎日が始まった。折しも日本は高度経済成長の全盛時代であった。とにかく、よく働き・よく学び、そしてよく飲んだ。愉快で楽しく旨い酒、苦い酒、いろいろあった。 あれから随分と時が流れた。野山を駆け巡り、屈託なく群れ遊んでいた少年時代、村上の思い出は今でも色褪せることなく、郷里の風景とともに輝く。海・山・川と自然豊かな村上で少年時代を過ごせたことは、とても幸せであった。 人生は過ぎてみれば短い。「人生、夢・幻の如くなり」と云うが、なぜか最近しみじみと、その事を深く思う心境である。 |
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