http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001 2009年1月号

  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.91

―消防人生―  さざれ会と共に57年
川村 正
(かわむら ただし)
昭和21年3月 
 山辺里国民学校卒業
昭和27年3月
 村上高等学校卒業
東京村上市郷友会副会長
東京消防退職公務員会板橋支部長
平成15年秋の叙勲受章
東京・板橋区在住



さざれ会平成18年度総会
(筆者後列左から5人目)






丸の内消防署長
谷口由美子さん






目黒消防署と消防団合同防災訓練





キヤノン株式会社消火訓練指導





忙中閑あり
1987年7月27日福島民放G.C
鈴木一(目黒)筆者(矢口)
佐々木六朗(新宿)霜山専(新宿)
池と鴉で笑いのゴルフでした

   紺の法被の襟元にぁー 火消頭と書いてある
          なんぼ火消の頭でも  恋の炎は消さりぁーせぬ
と昔の鳶職は謡っていたと聞かされてきた。高校卒業したころは、就職難時代であった。東京に出て、火消しにでもなるかと思い、新潟消防本部であった東京消防庁の採用試験の広告を新潟日報で知り受験、合格し、昭和27年10月1日に消防学校に入校のため、9月30日の夜、汽車にトランク一つで11時間かけて上野駅に到着、渋谷区幡ヶ谷にある東京消防学校に入校、6か月間の訓練、教育を受け、短靴、ワイシャツ、ネクタイ消防服を着用したことでやっと自分なりに消防官として身の締まる思いがした。
 そして翌年4月1日、品川消防署勤務の辞令を受け同日着任した。当区域は工場地帯が多く、火災も多くあり、放水員として苦労した。特に昭和39年は、新潟地震、東京オリンピック、降雨が少なく断水があり生活にも苦労した年であった。
 そんな中7月14日勝島倉庫爆発火災で19名が殉職したのである。非番参集し現場交代して消火、不明者救出にあたったのである。通夜、告別式で署員全員悔し涙を流したことを今でも忘れることはできない。
 昭和22年12月23日「消防組織法」、同23年7月24日「消防法」が制定され、警視庁消防部であったが、東京消防庁として独立、千代田区永田町に本部庁舎が出来、その後現在の大手町に庁舎(12階)が完成、現在に至っている。組織は本部庁舎(8部)、消防学校、安全技術所、整備工場は渋谷区幡ヶ谷にある。方面本部は10部、消防署79署、分署3署、出張所207所、職員は18,000名である。消防車両は、ポンプ車、救助車、救急車、梯子車、照明車、指揮車、給食車など多数ある。消防業務を執行するには、その他火災予防条例、危険物取締条例を基に行っている。
 昭和41年1月志村消防署に転勤し、3年間救助隊として、昭和43年2月古井戸(14m)に転落した5歳の幼児を救助し、その後成人式、結婚式に招待されマスコミ各社から取材、放映されたことは消防みょう利であり嬉しく思った。その後署長伝令(秘書)となり、昭和44年4月1日野方消防署に昇任転勤した。この間隊長として荻窪の引揚家族寮木造2階建2棟の大火災、豊玉マンション(7階)火災に梯子隊長として出場、5階に居た5名を救助した思い出がある。
 これからが自分の消防人生が大変身するのである。昭和46年4月14日総務部企画課に昇進転勤したのである。誰でも一度は勤務したいポストである。キャリア組の多いところに高校での私が転入したのが当時は不思議に思った。担当事務は庶務、庁議と総監のもと各部長が出席しての庁の最高機関事項を決定する会議である。昭和47年4月1日から女性消防官採用に伴う服制を前年から検討、専門家にデザインを依頼したのである。大学卒業が条件で60名採用した。その他庁旗、名札、礼服等の制定も担当した。女性消防官は現在900名で、署長、課長、係長、主任が各署に多数いる。男女雇用均等法により、消防業務は皆同じで、災害出場、防火衣、室内での服装は同じである。
 昭和40年代に入り経済も成長期に入り、防災対象物も高層化、地下化され消防活動、立入検査も複雑多岐にわたり、消防装備も安全で堅固なものになってきた。建築物確認申請は、消防署長の同意(法7条)も必要となった。火災の原因調査権は署長にあると消防法で定められている。建築物の立入検査も消防署長にあると消防法第17条に定められている。危険物施設も同じである。
 反面、火災予防の広報、指導行政も多く、消防少年団、防火協会、消防団、老人会等ソフト面が多くなってきたのである。災害出動はすべて都民の「119番」から始まる。当庁の総合司令室に入り、火災、救助、救急、その他危険排除(油の流出等)について司令室で内容、場所を確認、関係方面に出動指令が一斉になされる。これは災害本部長(総監)の命令である。水防、地震災害も同じである。火災の程度は小火、部分焼、半焼、全焼である。鎮火の判断は現場最高指揮者(大隊長)である。出場は、火災の程度により第1から第4出場まである。
 昭和52年7月新宿消防署に昇任転勤した。担当は庶務担当で、昭和46年から引き続いて毎日勤務である。庁舎改築、大久保、落合、戸塚の各出張所が所管である。近隣へのあいさつ、苦情処理など苦労した。昭和59年3月開署50周年記念式典など毎日私服で外回りをしていた。外郭団体の指導もしながらの6年8か月であった。矢口消防署に昇任転勤したのは59年4月1日であった。この署でも下丸子出張所の改築で近隣への挨拶周り、落成式の準備で多忙な5年間であった。平成元年4月1日目黒消防署に転勤、大岡山出張所の所長となり、区民、老人会、小学校、消防団指導で多忙であった。大岡山出張所の改築で仮庁舎の敷地探しに苦労し都立大敷地の一部を借りることが出来た。ほっとした。完成を見ないで41年6か月の消防人生が終ったのである。表題の「さざれ会」であるが、これは昭和27年10月1日消防学校に入校した第330期生68名の会の愛称である。現在は30名でこれまで他界、中途退職した者36名がいる。毎年10月1日を記念して懇親会を実施している。さざれ会の中から消防総監2名、学校長1名、方面本部長2名、署長2名が昇進しており、更に全国救急医学会に村上高校4回生の大竹茂久氏がいる。救急隊長として出場すること20,000回に及び多くの功績を挙げている。昭和45年11月25日市谷にあった防衛庁に乱入し殺傷事件を発生させた三島由紀夫がいた。麹町救急隊長として出場し、あと2隊が必要と判断、要請するなど適切な処置を行い、多くの賞を授与されたのである。ちなみに大竹茂久氏は私と村高で同じクラスであった。退職後は国士舘大学で救命士の国家資格を取得するための学生指導にあたった人である。さざれ会の一員として昇進した方々を持って大いに誇りに思っている。何かと拙文であるがご容赦いただきたい。一つでもご理解いただければ幸いである。なお、法律、条例は時代の流れにより改正されることがあることを付記しておく。終わり

リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)

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稲垣 伸夫
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