2008年7月号 | |||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.85 |
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あれから50年私のふるさと村上の思い出 |
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40歳にして転勤のため東京に出てきて早くも20数年が経ちました。村上の思い出を書いてくれないかと、突然の依頼を受けとまどっておりました。私にとってやはり小中学校の昭和25年頃~30年頃の事が思い出されます。 当時の10月~12月頃は三面川の居繰網漁で獲った鮭を藁で作った(大人が腰をかがめて入れるような雪のかまくらのような建物)小屋で採卵をするため舟から運んで来るときに卵がバラバラと落ちたものを拾ったり、帰りには肥後守のナイフで柳の枝を切り刀を作って同級生の松岡君とチャンバラをしながら家路についたものでした。春には家族、近所のひと達と臥牛山(お城山)で花見をしたり、あの頃の桜の花は本当に見事だった様に思われます。お域山から見下ろした村上は特に雪景色が美しく自然が豊かで本当に素晴らしい所です。 夏は村上大祭や七夕祭があり、小国町、安良町、大町、小町までは沢山のおもちゃ屋が軒を並べそれは本当ににぎやかでした。 秋には学校の大運動会があり、各家族が重箱に栗の入った赤飯と色とりどりのおかずを持って応援に行き校庭は満員になるくらいの人でいっぱいだったように思い出されます。あの頃は子供たちが多く活気に満ちていたのでしょう。そして最後は紅白のリレーがあり、思い出すと其の頃の大声援が今も耳に蘇って聞こえて来るようです。 又市営グランドでは市民運動会があり本当に元気な村上でした。そして私の周りの友達などは、勉強は二の次で上級生を頭に夕飯時まで良く遊んだものでした。 初夏6月には、お滝様に行って笹団子・柏もちを作るため笹の葉や柏の葉を取りに行ったものです。食料難で育った私は、食べることが一番の楽しみだったのだと思います。今でも村上はお米・魚・畑の物など自然に恵まれ帰省するたびになぜかほっとします。 転勤で東京にきてから、東京のど真ん中を走る山手練の運転士を定年まで勤め、第二の職場として浜松町~羽田空港間を走るモノレール運転士として勤め昨年9月現役を退きました。今ではお天気の良い日はタワーマンションのベランダから東に朝日を、冬は西に富士山を見て妻と90歳になる母とコーヒーを飲みながら時々村上の話をし、楽しく過ごしております。 毎年2回~3回位は車で帰省しますが少しずつ町並みが変わって来ているように思われます。これからも村上の良いところは何時までも残してほしいと願っております。 |
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