2008年3月号 | |||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.81 |
|||||||||
私を育てた郷里 |
|
||||||||
新潟県の県北から山形県にかけてひろがる朝日山地は、磐梯朝日国立公園の指定をうけた山岳地帯である。(山に生かされた日々)その朝日山地の水を集めて流れる清流が私達の誇る三面川である。その豊な自然に恵まれた城下町村上市は、歴史と文化と教育薫る我が郷里だ。 私は幼少年期をこの素晴らしい環境の中で自由奔放に育った。遠い昔のことになってしまったが、私の母方の祖先は村上藩の祐筆だったと聞く。祖母の曰く「殿様に手習いを教えていた」と、祖母の実家の姓は伊藤といった。 殿様の姓が内藤なので殿様と同じ「藤」の文字を使っては申し訳ないと「東」として伊東と名乗ったという。いま考えるとおかしな話だが本当のようだ。明治の初期、祖母は町の商家に嫁ぐ。何百年も続いた寺町の筆屋である。今は廃業し朱色に塗られた筆の看板は県の文化財として寄贈された。分家して上町に筆屋を構えたが酒好きの祖父は家まで飲んでしまった破産である。 福島の磐梯に出稼ぎとなり私はこの地で生まれ三歳まで育った。祖父亡き後一家は村上に戻った。そこから私の幼少年期が始まる。五歳で村上幼稚園に入園、腕白盛りの私は餓鬼大将と化した。当時は幼稚園などに入園させて良いものかと家族会議を開いた家もあったそうだ。 平成六年十月村上幼稚園卒園五十周年記念の集いが開催された。浦島太郎の世界だ。おそるおそる出席してみた。内山・岡田両先生もお元気で出席された。時間が経つうちに友人たちの顔が蘇ってくるから記憶というものは不思議だ。 村上の四季は変化に富み美しい。十一月中旬頃から三面川に鮭の遡上がはじまる。十二月初旬に雪が降り寒い冬の到来となる。三月までは凍てつく根雪の大地を踏みしめながらの生活が続く。二月には地吹雪をあげて横なぐりの粉雪が舞う。私達はその厳しい自然環境に耐えながら育った。そんなところから忍耐と挑戦力が養われたと思う。春が待ちどうしい、じっと春を待った。大地のどこかに土の匂いを探る。小川の土手に被る雪の合間から清流が垣間みえる鮭の子が群れをなして流れを上る。待ちに待った春の到来だ。「鮭の子を獲ってはならない」と子供の頃から教えられていた。 この地方の初期の領主で村上の城や町の原形を作り上げたという堀丹後守直竒は元和五年(1619)に布部村(現朝日布部)に「鮭の子を獲ってはならない。もし獲る者を見つけ届け出れば褒美を出す」とおふれを出している(鮭の子ものがたり)。その後漁業法が施行されたにしても現代期まではその「おふれ」が守られてきたことには驚きであり、代々言伝えを守った村上人の鮭の資源を大切にし、自然環境を守る誠実な実直さに頭がさがる。 明治十五年(1882)四月 旧村上藩士七百余名は三面川の漁業経営に当たるため財団法人村上鮭産育養所を設立したと記されているが、私の家にも毎年十二月には、その年の漁獲量により三匹、少ない年で二匹と鮭が届けられた。いま考えてみると株の配当のようなものだったかも知れない。それが正月、我が家の食卓を飾った。 私の少年期は春から夏秋と想い出が沢山あるが、紙面の都合上割愛する。 新潟県荒浜出身の教育者牧口常三郎はその著書「人生地理学」に「堂々と聳える山は人間の心を大きく開かせてくれる滔滔と弛みなく流れる川はあらゆる障害を越えてゆく堅忍不抜の心を養なってくれる」と誠にそのとおりである。 村上市からは多くの人材が育っていった。次の世代を担う「鮭の子」達が社会に役立つ人材として陸続と育ち征くことを願ってやまないものである。 |
|||||||||
筆者:生徒の上から3段目 右から5人目 村上幼稚園卒園50周年 1列目右から4人目内山先生、5人目岡田先生 筆者:3列目左から2人目 |
|||||||||
|
|
||||||||
|