2007年8月号 | |||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.74 |
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分校の思い出 |
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私は一年生から四年生までは分校で過ごしました。上山田と下山田と二つの集落の間に小さな学校があって大瀬先生と云うおじいさんの先生が一人で教えて下さっておりました。 その頃は生徒数が三十二、三人だったように記憶しております。それが山田分校です。 二年生の時、分校としては始めて学芸会をやることになり、本校の先生方がお見えになると云う事で皆はり切っておりました。 私達女児は踊りをやる事になり、姉の女学校時代の友達で村上幼稚園の園長先生の娘さんに、家まで教えに来ていただきました。 当時は着物より着たことのない私達が、可愛いフリルのついた洋服やピカピカ光るビーズのついた衣装を沢山貸して下さって、皆ははり切って練習に励みました。後日本校の先生方の感想として、分校の生徒達はすばらしい。本校の生徒と引けをとらないとほめて下さったそうです。 忘れられない思い出です。 遠足も又楽しみの一つでした。 母は早く起きて、くるみ味噌の焼おにぎりや玉子焼きなど作ってくれ、小さなリックには栗や柿を入れて、祖父が新しく赤い鼻緒のわら草履を作って玄関に揃えてありました。 五年生からは本校に通うことになり、約二里の道を朝は六時半頃家を出て、石ころだらけの道を、下駄を履いて通うのです。十日位で下駄の歯が減って割れてしまいます。 秋の日の短い季節は、放課後教室の清掃をして帰ると家へ着く頃は暗くなってしまいます。途中大きな声で歌を歌いながら帰ったものです。本校に通う様になると、冬期は雪のため通い切れません。それぞれが下宿するのです。叔母の家が杉原にあり、私達がいつでも使える様にと専用の部屋が一つありました。 私の生まれ育った所は、山奥の十五軒よりない小さな集落です。家のすぐ前には一町歩の栗林があり、春雪が消えると一面カタクリの花で紫のじゅうたんを敷いた様になります。 それが終わるとぜんまいが出てその次がわらびです。秋、栗の実が落ちる頃風が吹く夜はなかなか眠れず暗いうちから電灯を持って栗拾いに行くのです。袋いっぱい拾ってそれから学校に行きます。今でもたのしい思い出です。 中学三年生の時、NHKのラジオ番組に子供のど自慢と云う番組があり、村上にも巡回して来ました。音楽の先生に進められて出場し「追憶」と云う曲を歌ってみごと鐘三つ鳴りうれしかったです。何日かしてからラジオから流れて来る自分の歌が他人の人が歌っている様に聞こえてきました。 大瀬先生は三十年以上も山田分校で子供達を教え続けて下さったそうです。 今でも一番心に残っているのは、道草をして一時間以上遅刻して先生に叱られたり、山へ入って栗やあけびを取ったりした分校での楽しかった日々です。 ふるさとがあると云う事を感謝しております。 現在は自宅と目白の稽古場で小唄を教えております。 |
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