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2007年3月号 |
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リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.69
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故郷が育んでくれた忍耐強さと思いやりの心 |
菅原 哲夫
(すがわら てつお)
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昭和40年3月 黒川俣小学校卒業
東京消防庁・ハイパーレスキュー隊を経歴
現在板橋消防署勤務
趣味:水泳・山登り・ゴルフ
埼玉県飯能市在住
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前穂高岳にて筆者 |
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私が育った山北町の黒川俣地区は新潟県の最北端で、今でこそ整備された裏日本の大動脈国道7号線が縦断して南へ北へと自由に往来して居りますが、幼い頃の田舎は険しい峠と山々に囲まれたまさに陸の孤島でした。当時の生活は「ふるさと」の歌の文句そのままで、夏は家の前の川で鮎を追い、冬の遊びは雪山でウサギを追うという生活の明け暮れだった様な気がします。
そんなせいもあってか、家族の都合で市内に下宿させて貰った村高時代の2年間は、一端の都会人に成ったような浮き浮きした気持ちと、今では懐かしい沢山の思い出を作りました。陸上部に在席して居た事もあって、みぞれが降りしきるなかでの荒川までの遠駆け、冬の長い廊下のエンドレスランや瀬波海岸の波打ち際2時間走、夏はむせ返るような暑さを逃れて松林の柔らかい散策道を走り、秋には落ち葉をふみながらお城山までの一気駆け等々、私にとって村上の街全てがトレーニングの場でした。疲れ果てて帰った下宿の軒先には何本のも鮭が吊るされ、土間の台所で笑顔で迎えてくれる年老いたおばさんが、古い歌をエンドレステープの様に歌う姿が今でも思い浮かびます。丁度その頃テレビではピンキーとキラーズの「恋の季節」が大流行の時代です。
三年生になる頃に東京の高校に転校し、卒業と同時に東京消防庁に入庁、以来約35年間レスキュー隊員として、「人の命を救う」という仕事に携わって参りました。災害現場は常に困難や淒惨性を伴い、時には諦めたり、助けることが出来なくて余りの悔しさに隊員同士で泣いたり、投げ出したくなる事も数多くありました。中でも思い深いのは阪神淡路大震災時、東京消防庁の先遣隊として神戸に派遣され、余震が襲う中で昼夜の救出活動を続け、12人の生存者を含む26人を助け出したり(小6の時の新潟地震の怖い経験がとても役立ちました)、三宅島噴火災害では有毒ガスが発生して劣悪な活動環境下、長期間に及ぶ復旧活動をしたこと(島民には大変感謝されました)などです。
お陰様で平成11年には、特別救助の功労として「都民の消防官」という大きな賞を頂くことが出来ました。「人の命を救う」という事は大変な仕事では有りますが私にこのような忍耐力や熱く思いやりのある「心」を育んでくれたのは故郷であり、母親の様に優しく温かく見守り、風雪に耐えながら何時でも笑顔で迎えてくれる故郷の多くの人達であると心より感謝して居ります。故郷の温かい「心」を私の心の拠り所として、力と気力の続く限りこの仕事を続けて行きたいと思っております。
前列左から3番目筆者 |
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