2007年12月号 | ||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.78 |
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母と村上への思い出 |
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私は長兄の健志とは5歳年が離れていて、時代背景も又同じ兄弟でも育った境遇が若干違ったので、村上に対する思いはそれぞれかもしれません・・・。 我々は5人兄弟姉妹で、母親は生粋の村上生まれの村上育ちです。生家は上町の元米屋で屋号が18番と言われてました・・・。何でも町で18番目に電話が付きその番号が由来だと生前の母は自慢げに話してました。 私の姉(昭和17年生まれ)の話によれば我々兄弟姉妹は田端町で生まれ白土工場の斜め向かいの加藤木工所の2軒続きの長屋で暮らしていたそうですが私はかすかな記憶しかありません(姉から昔の話しをよく聞かされて育ったせいか・・・不思議に白土工場だけは記憶にあるような気が致します。) その後、兄(健志)の随筆にもあるように父親の実家(桑川)に移り住みました・・・村上に比べれば狭い村なので親子共々いろんな苦労はありましたが・・・今振り返ればほんとうに自然豊かな環境だったとつくづく感じます。 現在も母親の墓参りの際には必ず桑川の海まで足を伸ばし、いまだ還暦を過ぎても素潜りで岩ガキを自分で取って食べることを何よりも楽しみにしています。 私はその桑川で中学3年まで暮らし、兄たちがそれぞれ就職し妹と二人になった時に改めて、村上に引越しをしました。 その後、妹も就職し母親と二人暮しを高校3年迄、続けましたが、私は自分自身の村上への思いと言えば兄同様に母親抜きには考えれられません・・・。幼いころから村上のお祭りには必ず伯母(母親の実家上町)の家に行きお祭りを見るのがなによりもうれしくて前の日の夜等は遠足の前の日と同じような気持ちであったと思い出します・・・。私がお祭りに行っての楽しみは、おシャギリや荒馬の行列等は元より、何よりの楽しみは蒸気パンでした。(いまはあるかどうか解かりませんが・・・)何しろ育ち盛りで甘いものに飢えていましたから、焼きたてでほのかに甘い香りのする細長い蒸気パンは何本でも私の胃袋に吸い込まれていったことをほんとうに懐かしく思い出します。 高校に入学して3年間村上で過ごしましたが、そこでの一番の思い出と言えば学校(桜ヶ丘の林業科)の夏休みの研修とアルバイトを兼ねたお城山の下刈りと杉の木の測定です・・・お城山は遠くから見ると小さな山にしか見えませんが実際に現地に行き作業を始めると真夏の炎天下で途中でいやになるほど作業が進まずほんとうにキツイ作業でした。 確か同級生4名~5名位の人数だったと思いますがふもとから身の丈程もある大きな鎌を手にして雑草を刈って山のてっぺんに向かって行く作業ですが、それが終わると杉の木の測定です(立木)の幹の太さを全て測定して印を付けて行く根気のいる仕事で相当へこたれたのを覚えています。 学生時代はいろんなアルバイトをしましたが一番キツイアルバイトだったように記憶してますが今では良い思いでになってます。 ところで亡くなった母親は大正4年生まれですが自分が生まれ育った村上をこよなく愛したひとでした。その村上が大好きな母親から聞かされた話で特に印象に残っているのは・・・。 瀬波の温泉が噴出した前夜のキツネの夜鳴きの話から始まり・・・三面川の冬場の鮭を取るときに男衆が冷たい水に入るのに身体が冷えないように生醤油を飲んで入った話し、昔は竹さおを川面に立てても倒れないほどにたくさん鮭が取れた話し・・・現在母親が眠っている長楽様(長楽寺のことです)でよく遊んだ話し、昔、母の生家の米屋18番が羽振りの良き時代には映画館に顔パスで出入りし乙女心をときめかしたはなしや、入学当時は人力車で女学校に通った話しとか・・・又、誰がいつの頃から言い出したのかは正確には聞き及んでませんが・・・ざれ歌で、時の村上内藤藩主を揶揄した次のような川柳をお袋はよく口にしていました。(もし、本会に関係者がご存命でしたら笑ってご寛容の程・・・) そのざれ歌とは・・・金はないとうきえのかみ すそからぼろの下がり藤・・・ 時の藩の経済事情を皮肉ったものでしょうが・・・今流に言えば、思わず座布団1枚・・・(テレビ番組の笑点)というとこでしょうか? そんなお袋の血筋を引いたのかもしれませんが私も村上が大好きで、年に1回リフレッシュを兼ねて今は新潟に在住の姉妹と一緒に昔話しに浸り、長楽様に墓参りし市内を一周し今は寺町にある・・・ちくにのラーメン(学生時代によく通ったお店です)を食べて、瀬波の温泉につかり笹川流れまでドライブするのが今の私にとっては何よりの楽しみです。 最後に小生も駄作を一句で〆させて頂きます。 だーまたせー いよぼや恋しい年の暮れ |
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