http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001 2007年11月号

  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.77

「故郷の思い出」
家田 悦子(旧姓 飯島)
(いえだ えつこ)
昭和26年3月村上小学校卒業
東京都在住






三面川鮭魚場より見たる村上舞鶴城址
(古い絵葉書より)









村上城より見たる村上市街と日本海遠望
(古い絵葉書より)








22歳で結婚し、早2倍以上の年月が流れてしまいました。
 日本海の水平線に沈む夕陽が、ハワイのサンセットに勝るとも劣らない素晴らしい風景も、格別のものがございますが、又これ以上の村上のシンボル臥牛山。そうお城山なのです。
どんなに周囲が変化しても、この場所に動ぜず、そして両手を広げて、私を包み込んでくれる様は、偉大です。
 子供の頃はぽんぽんかけて登ることが出来た山も、年々スピ-ドが落ちてくるのが寂しくもあります。
 これは致し方のないことですが。頂上に登ったあの満足感に浸ることが出来るのです。
 遠くは日本海、瀬波温泉、右手に下渡山その下を三面川。
手前に小学校、中学校、高等学校と並び、最後に我が家の小さな三階の窓を確認し、なぜかほっとするのです。
 今では景色も随分変化しておりますが。

私の幼い頃
 三面川の鮭が大量に水揚げされると、どこからともなく「鮭であーんす」の声が聞こえてきます。母がどこまで買いにいったかは定かでないのですが、台所で鮭に塩を擦り込み、軒下に10本ずらりと並べて干す姿は、何ともいえず嬉しかったものです。  
 それから餅つきが始まり、餅米の蒸しあがる匂い、そしてぺたんぺたんと餅をつく音。
 もうすぐお正月が来て、赤い着物が着れると幼いながらもわくわくするものがありました。

防空演習
 もうひとつ私には忘れられない思い出があります。
昭和19年、未だ幼稚園児だった頃、第二次世界大戦のまっただ中でした。
空襲の体験はしないですみましたが,焼夷弾にみたてた布製の赤い玉を屋根の上に上げ、バケツリレーで水をかける訓練が行われていました。
 私達は防空頭巾をかぶり、煎り豆の入った鞄を肩にかけ、近くの藤基神社に逃げ込んだのです。
 夜空を真っ赤に染めた新潟市の空襲の後、まもなく終戦となりました。

米軍の上陸
 終戦後間もなく、瀬波の浜が輸送船団で埋め尽くされ、キャタピラの音を響かせ、戦車、ジ-プが次々と上陸してまいりました。
 村上町の人々はさぞ驚いたことと思います。
 私の実家は写真館。洋館建てだったために親しみがあったのでしょう。
「ヘ-イ、ハロ-!」と叫びながらガラス戸を叩くと、母は怯えて部屋の片隅に小さくなり、姉達は柱の陰に隠れました。
兄は辞書を片手に必死に何か話していましたが、通じていたかはわかりません。
それから毎日やってくるのです。
怖さも何もわからない私は、兄の言葉を真似て「カムイン プリ-ズ」と家の中に招き入れていました。
 アメリカ兵は私をたかだかと抱き上げ、肩車をし、チョコレートやガムをくれるのです。
 食糧難の上に、甘いものなど口に出来ない時代で、最高のプレゼントでした。
そんなある日、小さな兄の軍服と、ぶかぶかの米軍の軍服を交換し、私達姉妹も一緒に記念写真に納まりました。大爆笑でした。
明るく笑い声の絶えない陽気なヤンキ-たちでした。
 風のように来て、風のように去っていったあの青年達も今どうしているのでしょうか。
ほろ苦いあのチョコレ-トも、風船のように口の中で膨らんだチュ-インガム も、今では遠い思い出です。

リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)

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