2007年10月号 | ||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.76 |
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子供時代と三面川 |
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1938年(昭和13年10月)私は東京新宿(牛込区余丁町)で生まれました。家は余丁町教会と愛光幼稚園を経営していました。昭和15年、妹が母親のお腹にいるうちに父親が戦死しました。 近くの台町に陸軍の高射砲陣地があり、連日のように高射砲を打つ音が聞こえ、警防団の人の「空襲警報発令」の叫び声が聞こえ、家の黒い垂れ幕を降ろしたり、幕を引いたりすることが多くなりました。 昭和19年、先祖が住んでいた村上に移ることとなりました。 村上の家は、村上藩の中小姓をしてた先祖は下級藩士で家計を維持する為と思いますが、桐畑があり、四季の果実が植えてあり、裏手が畑になっていました。ちなみに門は尺角、赤うるしの門柱で、玄関まで25M砂利が敷き詰めてあり、玄関を入ると縦に長い土間があり、上り段は1間幅で、入り口の部屋縦長部屋でした。正面に大きな頑丈なつい立てがおいてあり、右手の部屋はいろりをきってあり、その先土間があり、かまど、水風呂、土間の左手に台所がありました。部屋の数は9部屋くらいあったと思います。 また、屋敷内の果実は、柿の木17本、(甘柿、ヒヤクメ柿、みょうたん、ふゆう柿、じろう柿)、栗(屋敷栗、丹波栗)、梨、桃、杏、無花果、さくらんぼ、葡萄、梅、胡桃、ふき畑、苺。 この畑は武士時代から出入りをしていた、たまじいの一家が耕作してくれて、半分を家の納屋に、半分を持って帰っていたような記憶があります。 また庭の築山には巨大な松の木があり、松の木の上部にトンビが住みついていました。 近くに I 家があり、I 家は村上藩主の家老職の家柄であり、武士時代は当家と3回も縁組をした間柄で、長兄のケイスケおじさんと私が呼んでいた人が家を継いでいました。8人兄弟の1番上のお兄さんで、I 家はあんまり子供が生まれるので1番下がこれで修めるということで、修という名前をつけたそうです。 修おじさんは、後に法相、文相等々を歴任した人です。また落選した時などは私の家に居候していたものです。 話は前後しますが、村上に疎開してからは半年くらいは I 家のねえやのアサが、食事ができましたと迎えにきてくれて、I 家で食事の世話になった憶えがあります。又、お盆、大晦日は必ず私だけ工家に招待され、ご馳走になったのを憶えています。 さて、三面川の鮭の話ですが、下流の方孵化場(育養所)があり、卵が稚魚に孵化する場所があり、祖父に連れられてよく見学に行きました。秋には育養所に行った際に鮭の臓物(通称みのわた、いくら)を貰って帰り、みのわたは大根と煮る、いくらはしょうゆにつけて食べるのが非常に美味かったことを今でも憶えています。 12月頃だと思いますが、捕獲した鮭がI家に届き、士族の家族に配られました。また、鮭の漁業権が士族から離れる頃、I 家の跡を継ぎ、当家が2年位の間、士族の家に鮭の配布をしました。また、配布する際は、何十匹もの鮭を、手伝いのおばさん連が公平の札をつけるのに忙しく立ち回っていたのを思い出します。 その頃は士族の家では三面川の土手に番小屋をたて、交代で密漁を取りしまって、寝ずの番をしていた期間でもありました。 昭和23年国の制度も変わり、新制中学の制度ができ、私達士族の子供が通っていた本町学校が新制中学、村上中学校になり、私達本町学校の生徒は村上小学校に編入しました。 新潟県で2番目に大きい学校で、生徒数が2000人くらいいたと思います。 1クラスに確か5人前後ずつ編入されましたが、溶け込むまで、結構いじめにもあいました。 それも村中、村高に進んでいくうちに良い思いでに変わりました。 |
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