2006年5月号 | ||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.60 |
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半世紀を経て | ||||||
鹿島建設の三面川電源開発のダム工事が始まって資材課勤務の長兄とともに村上に転校してきたのは中学二年の春でした。駅を降りて、曲がり曲がった家並みの道を歩き大町の仮宿に着いた日は不安がいっぱいでした。山あいの町から度重なる家の不幸と、既に両親のいない十四才の心は乾き、傷を負っていましたが、その哀れな女の子を村上は静かに温かく包み込んでくれました。二年の大滝先生の組でした。私は自分の名前の「キミ」が嫌いでしたので、漢字の格好いい名にしたいとクラスの皆に言ったら「貴美」「紀実」「喜美」と二十くらいの字をあげてくれてすぐ皆と仲良くなりました。 まだ海を見たことがなかったので瀬波の海岸に立ったとき感動して大きな声で「うあー海だ!」と叫んだことを憶えています。あれから高校卒業までの五年間が私のふるさと村上です。冬の厳しさには忍耐力を与えられ、一人ぼっちの寂しさは夢と想像する喜びを身につけさせてくれました。その頃の私のあだ名は「夢見る夢子」でした。高校入試合格の日は、仲良し三人とお城山に登りバンザイ三唱して卒業の日に又必ず来ようと約束しました。そして卒業の日城跡にはまだ雪がありましたが、そこに大の字に寝ころび空を仰いで将来を語り合いました。『こずかた(不来方)のお城の草に寝ころびて空にすわれし十五の心』この啄木の詩とともになつかしく思い出します。 夏が近づき期末テストで机に向かっていると祭りばやしの稽古が始まり「チャン、チャン、チキチキ、チャンチキチキ」というこの音は遠くカナダに住んでいる時も耳に響いて忘れられませんでした。桜吹雪の高校卒業後すぐ看護学校に入り、卒業後は虎ノ門病院、カナダのトロントの病院、帰国して主婦、子育て後、東海大学病院。そして精神病院総婦長を経てから六十才を過ぎて今も介護支援専門員として横浜で現役です。公私共にキャリアのノウハウが生かせて幸せです。六十才は第二の青春です。七十才は壮年です。八十で初老、九十でようやく老年です。 鮭っ子の皆様、これからも好奇心と豊かな感性をもち健康でありますようにと願っています。 この誌上を借りてひとつお尋ねしたいことがあります。桜ヶ丘高校の確か布川先生の国文の時間でした。こんな良い短歌を作った人がいますと言って紹介して名前を明かしませんでした。『この町をふる里と呼びし遠き地に一年ほども暮らしてみたい』。どなたの作でしょうか。ずーっと気になっていました。村上に生まれ育った方と思いますが“一年ほども”が味わい深いと感心しています。詠み人はどなたでしょうか。 村上を後にして五十年を経てますます望郷の念がつのります。クラス会を楽しみにしている今日この頃です。人が移り変わり、交通が発達しても村上の伝統と文化が確実に保存、受け継がれてゆくことを願っています。 |
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