「どどどどどっ ダンダンダン」大勢の人たちが廊下を走ってくる。その音が西の方かから近づいてくる。5時間目が始まったばかり、体育の授業が中止になったクラスが体育館から廊下を教室へ戻るのかな?と思ったとたんドンと下から突き上げられて何故か体がゆれる。
昭和39年6月16日午後1時3分村上高校の1年11組、ベビーブームのために急遽講堂を改造した教室は数学の授業が始まっていた。大勢の人が走るような地鳴りの後、下から突き上げるようなゆれれがあり大きく体がゆさぶれれる。ゆれ始めて10数秒、誰も一言も発せずゆれ続けていた。「自分は何故こんなにゆれているんだろう?何が起きたのだろう?頭の中は???がいっぱい。ゆれが続く中で窓際の後ろから2番目の席に座っていた勝木から来ていた五十嵐君が突然立ち上がり「地震だー!」と一声、この声にみんなはハッと我に返った。今まで自分が体験してきた地震のゆれを遙かに超えるこのゆれ、でもこれは地震なんだと気づいたのです。
五十嵐君は叫んだ後に、自分のすぐ側の窓から外へ飛び出したのです。するとクラスの半分以上の人が五十嵐君が外へ飛び出した窓へ押し寄せたのです。まさにパニック状態に陥ったのです。自分たちが何が起きたか判らなかった時に最初に地震と気づいた人がいる。その人があの窓から出て行った。あの窓から出れば安全なんだと一つの窓に押し寄せてしまったのです。しかし、それも一時の間でやがて冷静さを取り戻し他の窓からも外に飛び出しました。一階と言っても窓の高さは1m60cmくらいあったと思います。男子はもちろん女子もスカートであることなど気にせずに高い窓からピョンピョンと飛び出してくる。一人だけ着地に失敗して膝をすりむいてしまった女の子がいました。数学の立川先生は最後に教科書とチョーク箱を片手に指示棒をもう一方の手に持ち窓の敷居に両足をそろえて立ちピヨンと飛び降りました。
中庭の池の水はゆれで飛び出し3分の1くらいしか残っていませんでした。何の指示もなく、ゆれがおさまるとどやどやと校舎に戻り出しました。その時、またもや「どどど・」とゆれ戻し「キャー」と悲鳴をあげながら戻ってくる。校舎の継ぎ目が大きくゆれて瓦が落ちそうになっていた。もう校舎には戻れないと思った時に「校庭に集合しなさい。」と指示が出た。校庭に集合した後の記憶は今は定かではなくなっている。市外から通学していた人はヒッチハイクをしたり、線路を歩いたりしてようやく家にたどり着いたようであった。
幸い村上は地盤が良く新潟市のような大きな被害もなく停電もしなかった。水道と都市ガスは止まったけれど、井戸水と石油コンロで急場をしのぎました。鉄道も止まり高校は一週間お休みになり喜んでいたら、夏休みが一週間減らされしまいました。
我が青春の一大事件でした。
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山下 治郎
(やました じろう) |
昭和36年 村上小学校卒業
埼玉県越谷市立富士中学校 校長
2006年村上高校同窓会関東支部大会総会・懇親会実行委員長
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筆 者 |
アマチュア無線で地震の時他県と
連絡を通ったりした仲間と(村高1年) |
津波のため明神橋に打ちつけられた漁船 |
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