村上との縁は、稲葉修先生との出会いに始まった。
半世紀ほどタイムスリップすると、中央大学法学部教授陣には、現役で活躍中の各界のキラ星が集まっていた。その、三大巨星が、政界の稲葉先生、検事総長の花井忠先生、財界の水島広雄先生で、私は辞達学会で花井門下となり、4年で稲葉先生の行政法ゼミを選択した。講義の本筋より、ドイツ留学から政界、角界のこぼれ話、釣り談義の方が面白く、学生に人気があった。
60年安保騒動の最中、教職実習も終えたが、国家公務員上級甲種試験も発表があって、デモシカ先生はやらずに済みそうだと思った頃、先生から「これからは経済の時代になる。旭化成を受けるなら、あそこは旧7帝大と早慶が原則だが、ワシが推薦状を書いてやろう」と声をかけて貰い、学校推薦の他の2社から内定を貰っていたが、魅力ある会社なので挑戦することにした。運良く内定を貰って報告に行ったところ、11月選挙になったので、都合ついたら村上へ行って応援してくれないかと問われ、良い経験になると思いOKした。
三之町の先生宅(文化財若林邸)に起居を許されたが、廊下に吊るされた鮭の干物は壮観だった。このお陰で「鮭の子」(人材)が育つという。1ヶ月余り、忙中閑で、城址や簗も訪ね、岩船から東蒲原・中蒲原の錦秋を満喫でき、人情の機微に触れてほれ込んでしまった。
選挙は諸準備から手伝わせてもらった。運動期間になると、朝は5時起き、その日の運動の一番遠いところへ乗込み第一声をあげる。砂利道をトヨペットに組み上げた枠付き宣伝カーで駆巡る。通学時間になると生徒が追ってくる。「父さん母さんに、稲葉修をよろしくナ、頼んだゾー」。昼飯は後援会有力者の家でご馳走になる。食に関しては候補者と同格に扱ってもらえた。人家のすくないところはスピードアップ。砂利道は、腹を鍛える道場だ。街頭運動の時間が終わると、個人演説会。渡辺美智雄先生が時々栃木から応援に駆けつけて下さった。私は弁士不足のとき、美智雄先生の到着までの時間繋ぎを受持った。集まった支持者を飽きさせないように、稲葉先生の大学での活躍状況を先生の言葉を借りて報告する。
「力士は瞬間が勝負だから、頭が良くなきゃダメだ」「国会議員は体が強けりゃ勤まる」「最近は、形は良いが中身がまずい養殖アユ議員が多くなった」「ろくすっぽ勉強もしないで、金アサリが議員稼業だと勘違いしている議員もいる」「政界浄化がワシの仕事だ」「世間ではわしが選挙下手だというが、90票差でも、当選すれば任期は同じなのだから、本当は上手いんだ」等など。翌日の準備を済ませ、就寝は、深更に及ぶ。鮭の付け焼きが美味かった。
先生は低空飛行で当選。私は手伝いに行って4Kg太って帰り、辞達学会の仲間や友人から「お前真面目にやってきたのか」と揶揄された。
先生に褒美に頂いたスーツは、今も家宝として大切な席には着用させてもらっている。
人は出会いで運不運が決まるという。私が村上を始め新潟2区で出会った人々は、私に幸運をもたらしてくれた恵比寿大黒ばかりだった。
世の中、狂ってきたようだ。「刺客」「くノ一」、マスコミの増幅で、小学校にも及ぶ刺殺頻発の世となった。存命なら何といわれるだろう。先生のように政界浄化には手がつかないが、門下生として、世直しの一部は手伝わせてもらう決意である。
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磴 正雄
(いしばし まさお) |
日本ライフ株式会社顧問
中央大学政策文化総合研究所 客員研究員 同世直し辞達塾代表幹事
中央大学学員講師・学員会協議員
(社)北海道倶楽部 参与
稲葉修先生顕彰会 事務局長
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著 者(2005/12.1撮) |
稲葉 修先生 遺影 |
動けるうちは筆を友として
闘病生活を送られた
(平成3年春) |
(重要文化財 武家屋敷 若林邸)
清貧に甘んじた
稲葉 修先生の旧住居(村上市) |
滋賀県鮎苗漁協連合会(昭和57年)
(社)日本の水をきれいにする会
会長 稲葉 修 |
三重県美杉村竹原 鮎供養塔(碑)
裏面「昭和50年12月建立
法務大臣 稲葉 修 |
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