2005年8月号 | |||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.51 |
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昭和二十三年三月六日(地久節)、私は、時折り激しく吹雪く夜道を、村上駅へと、女学校前の通りを急いでいた。見送る母と妹と一緒に…。 吹雪く道は吹きつける右側に高く積り、左側へとゆるやかなスロープを作っていて、積る粉雪を、力をこめて踏みしめて歩いていた私は、辷って仰向けに転んだ。天空高く丸い大きな月が登っていた。 亡き父が「見送ってくれている…。」と、感じた瞬間、 「あっはっ・はぁ!」 笑う妹の声が静まり返った夜道に響いた。その声の明るさに支えられ私は立ち上がった。 「こんな時、笑うもんでない!!」 母のきびしい声がした。威厳に満ちたこの声は、生涯忘れ得ぬ私の想い出となった。 「東京には、立派なお人が大勢おいでになる。立派なお人に逢っておいで…」 と、言った言葉とともに…。 飯野の宝田家での「聖書を読む会」で発行していた“新聞”に「カチカチ山の狸は、おじいさんの畑のお手伝いをしてゐる…」と言った結末の、お伽噺の製作を載せていた私は、「日本の昔ばなし」を書き直したい!!と、意気込んでゐたのです。 童画家、黒崎義介先生が、絵本の奥付の頁に「お伽噺の改作」を述べておられたのを、早川書店で立読みした私は、先生に大賛成の喜びの手紙を差し上げておりました。只それだけの縁(えにし)で先生のお宅を訪れたのです。 御協力のお言葉を頂き、トンカツで中食まで御馳走になり、お暇(いとま)をする直前でした。 原稿料を、届けに来られた出版社の社長に逢い、一緒に東京駅まで帰る電車の中で「お伽噺の改作」の事を夢中で喋り続けました。 翌朝、その企画社の中西社長から、速達の葉書が届き、市ヶ谷駅近くの会社え行きました。社長に面会し、採用が決まり「編集長」の名刺を作れ、とのことです。 天にも昇る想ひでした…。 翌日から「おともだち」と題した、月刊の幼児雑誌づくりに熱中し、私を入れて三名の社員は、社長を中心に意気に燃え、幼稚園を目標に、其の売り上げをのばしてゆきました。 翌年、各社の編集長クラスの会合が、戦後はじめて開かれて出席。最後に“役員”三名を選ぶ投票の結果、小学館、キンダーブック、企画社の三社が選ばれ、驚きの声で会場はざわめきました。進行係りの小学館の編集長が、私の処へ駆け寄って来て「講談社の大杉氏に譲り、降りて頂きたい…」との事、勿論OKです。編集員は私一人の社です。集って飲んでいる閑などありません。後に講談社の「こどもクラブ」の仕事に携わりますが、隣にあった「幼年くらぶ」編集部の大杉編集長には退社する迄御指導を頂きました。 結婚の為、退社しましたが、亡夫は、小学校から中学まで同級のサトーハチローと、「砂丘」と云う童話の「同人誌」を作り「よっちゃんとお月さま」と題した亡夫の作品は、中央大学法学部の「眞法会」誌にも掲載されている由。亡夫の生涯を通じての、只一つの自慢話です。私はいまだに読む機会を持ちませんが……。思えば “志あるところ道はひらく”と、故里のあの吹雪は、「鮭っ子の稚魚」の私の背中を強く押してくれたのでした。 故里の吹雪は、まさしく千人力でした。 |
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