http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001 2005年7月号

   リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.50

「鮭っ子」の終戦

 私は少々変り種の「鮭っ子」である。朝日村大字早稲田出身の79才で、少年時代は美味しい村上の鮭を腹一杯食べる機会は遂に無く、この恨み節が先にでてしまう。
 然し、母と祖父は山辺里出身であり、私は「鮭っ子」の血を濃く受けている。
 私にとって、去る昭和20年の終戦は若い陸軍将校として忘れ得ない苦難の思い出がある。然し、今ではこの思い出は自分にとって貴重な教訓であり、その概要を述べたい。
 昭和17年の春、旧制村上中学校四年を修了した私は、陸軍予科士官学校に入学、戦時中の教育短縮があって、昭和20年の春に陸軍航空士官学校を卒業した。直ちに北朝鮮にあった教育飛行隊に赴任、7月に陸軍少尉に任官したが、間もなく8月に連蒲飛行場で終戦の玉音放送を聞いた。
 軍の命令により、北緯38度線以北の北朝鮮はソ連軍の占領となるので待機して武装解除を受けよとの指令が発せられた。次いで、ソ連側は武装解除後は全員を日本に帰国させること、将校には帯刀を赦すと確約したとの通達を受けた。それまでは、ゲリラとして抗戦又は脱走を真剣に考えていたのである。
 ソ連軍の進攻後平穏に武装解除を終了し、私達は暫くして帰国のため用意された船に乗船した。然し、この船は北上し、ソ連側は私等全員を欺いて一旦ソ連領に上陸させ、其の後はシベリヤ等ソ連の各地に強制連行して多数の収容所に収容した。これが旧ソ連抑留である。
 抑留された日本軍人の総数は約60万人で、通常2乃至3年にわたった抑留生活は、苛酷な筋肉労働を強制され、衣・食・住の生活条件は極めて劣悪であった為に、抑留中の死亡者の数6万人に達した。
 昭和22年の暮に私は帰国、復員した。私は現役の将校の故公職追放の指令を受けた。教員や警官等の公務員には一切就けないが、大学への受験資格だけは与えられた。そこにも一割制限という厳しい枠があったが、母の理解を得て独学し、金のかからぬ国立大学に幸いにも入学、卒業後は民間の電力会社に入社して平穏な社員生活を送った。
 其の後は自分の専門技術を生かしてコンサルタント会社を設立、社長として20年余を経過し、今日に至っている。
 旧ソ連抑留中死亡者のロシヤ領内の墓は甚だ粗末なものだった。私は約20年前から抑留中死亡者への慰霊活動を続けている。ここに紹介した数枚の写真は、私が関与し、協力した日本政府による慰霊碑建設に関するものである。旧ソ連抑留中死亡した約6万名の遺骨収集は、厚労省の懸命の努力にかかわらず、その約3分の2は今後共困難視されており、旧ソ連抑留の傷跡の深さを如実に示している。
 私を終戦の逆境から脱出させたものは、「鮭っ子」の不屈な血なのかも知れない。


富樫 利男
(とがし としお)

昭和13年3月塩野町小学校卒業
(株)ユニテックコンサルタント代表取締役
(財)太平洋戦争戦没者慰霊協会参与




著者




抑留戦亡者全員に対する日本政府による中央慰霊碑竣工式典
於ロシア連邦ハバロフスク市1995年9月




同上中央慰霊碑に隣接する民間による平和慰霊公苑建設
1994年来の工事進捗状況等検査、ロシア側ゼネコン代表と筆者
1994年11月於ハバロフスク市




筆者等が抑留されたエラブカ市の日本人墓地跡に建設中の日本政府による小規模慰霊碑とエラブカ市関係者達
2000年10月於ロシア連邦エラブカ市




筆者等エラブカ日本人墓地対策委員会が企画・作成した同上小規模慰霊碑の設計図の一部。エラブカ市側との建設費の交渉等も行って厚生省に協力、エラブカ市に第一号小規模慰霊碑が誕生した。1999年作成



リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)

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蜂屋 千代
(はちや ちよ)
東京村上市郷友会歌作詞者 
元講談社勤務 

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