2005年7月号 | |||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.50 |
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私は少々変り種の「鮭っ子」である。朝日村大字早稲田出身の79才で、少年時代は美味しい村上の鮭を腹一杯食べる機会は遂に無く、この恨み節が先にでてしまう。 然し、母と祖父は山辺里出身であり、私は「鮭っ子」の血を濃く受けている。 私にとって、去る昭和20年の終戦は若い陸軍将校として忘れ得ない苦難の思い出がある。然し、今ではこの思い出は自分にとって貴重な教訓であり、その概要を述べたい。 昭和17年の春、旧制村上中学校四年を修了した私は、陸軍予科士官学校に入学、戦時中の教育短縮があって、昭和20年の春に陸軍航空士官学校を卒業した。直ちに北朝鮮にあった教育飛行隊に赴任、7月に陸軍少尉に任官したが、間もなく8月に連蒲飛行場で終戦の玉音放送を聞いた。 軍の命令により、北緯38度線以北の北朝鮮はソ連軍の占領となるので待機して武装解除を受けよとの指令が発せられた。次いで、ソ連側は武装解除後は全員を日本に帰国させること、将校には帯刀を赦すと確約したとの通達を受けた。それまでは、ゲリラとして抗戦又は脱走を真剣に考えていたのである。 ソ連軍の進攻後平穏に武装解除を終了し、私達は暫くして帰国のため用意された船に乗船した。然し、この船は北上し、ソ連側は私等全員を欺いて一旦ソ連領に上陸させ、其の後はシベリヤ等ソ連の各地に強制連行して多数の収容所に収容した。これが旧ソ連抑留である。 抑留された日本軍人の総数は約60万人で、通常2乃至3年にわたった抑留生活は、苛酷な筋肉労働を強制され、衣・食・住の生活条件は極めて劣悪であった為に、抑留中の死亡者の数6万人に達した。 昭和22年の暮に私は帰国、復員した。私は現役の将校の故公職追放の指令を受けた。教員や警官等の公務員には一切就けないが、大学への受験資格だけは与えられた。そこにも一割制限という厳しい枠があったが、母の理解を得て独学し、金のかからぬ国立大学に幸いにも入学、卒業後は民間の電力会社に入社して平穏な社員生活を送った。 其の後は自分の専門技術を生かしてコンサルタント会社を設立、社長として20年余を経過し、今日に至っている。 旧ソ連抑留中死亡者のロシヤ領内の墓は甚だ粗末なものだった。私は約20年前から抑留中死亡者への慰霊活動を続けている。ここに紹介した数枚の写真は、私が関与し、協力した日本政府による慰霊碑建設に関するものである。旧ソ連抑留中死亡した約6万名の遺骨収集は、厚労省の懸命の努力にかかわらず、その約3分の2は今後共困難視されており、旧ソ連抑留の傷跡の深さを如実に示している。 私を終戦の逆境から脱出させたものは、「鮭っ子」の不屈な血なのかも知れない。 |
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