http://www.murakami21.com 村上広域情報誌2001 2005年4月号

   リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.47

「鮭と祖父」


 私は町民の子として生を受けましたので、本当の意味での鮭っ子ではありませんが、幼い頃から鮭との縁は深かったのです。何故かといえば母方の祖父が瀬波の漁師だったからです。あれはもう半世紀以上も前のことになりましょうか。鰯(いわし)が捕れに捕れた時代がありました。当時の記憶を辿れば周りの大人が「鰯ながし」と言っていました。その祖父が大漁の時には浜で火を焚き大きな鉄鍋で鰯を味噌仕立てにしてみんなに振舞うのです。まだ物資がない頃だったので老若男女が集まってわいわい言いながらおいしく頂きました。私はこの祖父が大好きで「八丁松原」をどれだけ往復したかしれません。当時は赤松が沢山あって「松を何本数えたからもうすぐだ」と思いながらポクポク歩いたものでした。祖父の家の軒先には沢山の塩引鮭がぶら下がり、あの独特の匂い、オレンジ色の乾いた腹、そして皮のグレーとピンク色が織りなす見事な色彩にしばし見惚れていたものです。当時祖母は既になく可愛がってくれた祖父も私が中学の時に亡くなりました。

 瀬波といえばもう一つ忘れられない記憶があります。ある日浜に米国の艦艇がやってきて大騒ぎになり大人が右往左往していたことです。船が浅瀬までやってきたと思うと鉄製のマット状の物が砂浜にジャラジャラと敷かれ、パックリと開いた船体の後部からジープが何十台も続いて下りてきました。その異様な風景は今も脳裡から離れません。一緒にいた姉は米兵に手を引かれ一度船内に消え、みんな心配していたところ、腕一杯にチョコレートや煙草を抱えて戻ってきたのです。珍しい物をもらった喜びより今まで見たことのない大きな、目の色の違った男の人から何かをもらうことに躊躇した自分がありました。しかし、人は多くの場合、成長していく過程で知り得た知識や感情をあたかも幼なかった頃の思いとして捉えることがあるので、それはよくわかりません。横川健氏の「村上の四季」にもある通り、それが昭和20年10月3日の事であり、上陸艦艇が22隻もの数であったことを後に知ることとなる。私にとって稀有で貴重な体験であった。

 思い出は尽きず、夏でも涼しい多岐神社のある「お滝さま」で遊んだこと、お城山の裏山へクラスで「クリスマス・ツリー」を採りに行ったこと、そして小学校の裏が懸崖になっていて、男の子といつも追いかけっこをして遊んだことなど懐かしい思い出となっています。

 最近つらつら思いますのは、このリレー随筆でも何人かの先輩諸氏が語られていたように、風光明媚なこの村上の地を賞讃してただ思い出に浸るだけでよいのだろうかということです。毎年行くたびに市街地は寂れ商店は閑散としています。今、むらかみ町屋再生プロジェクトと銘打って、会長の吉川真嗣氏をはじめ地元の有志たちが懸命にとり組んでおられるようです。私たち旅に出た者もあの美しく雄大な故里の山河と素晴らしい村上の教育者たちによって育まれてまいりました。
事業の大半は地元を知り尽くした吉川氏をはじめ町屋衆におまかせするとして、私たちも気運を高めるとか連帯していささかの支えになり得るように努力してまいりたいものです。

 日本中があるいは世界中が政治経済面でも混沌とした時代となりました。地方都市に於いても自然の美しさを守り、商店街の活性化を計るにはその都市のみの力では限界があると推察します。そこで清流で育まれた鮭っ子たちが旅に出て苦労して身につけたささやかな力で三面川に遡上し、苔のつきあんばいを眺めてみるのもまたよろしかろうと思いますが、如何なものでしょうか。



細井 ミツ子(旧姓富樫)
(ほそい みつこ)

昭和28年3月村上小学校卒業
元村上警察署内安全協会勤務
元ホテルニューオータニ経理部勤務
(有)細井役員 
貸ビル業経営








高校の恩師長谷川勲先生と
(四谷自宅にて)









米国進駐軍上陸記念碑
姉が訪ねる








村上駅










桜ヶ丘高校の桜

リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)

「鮭っ子物語」バックナンバー
次回予告
菅井 義夫
(すがい よしお) 


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