2005年11月号 | |||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.54 |
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伊與部芳治先生のこと | |||||||
<荒川のつり橋ゆけば青葉風> 小学校6年の夏、キャンプに行ったときの私の俳句である。およそ子どもらしからぬこんな俳句を、当時の担任だった伊與部芳治先生は褒めてくださったのである。人前では、何も話せないほど引っ込み思案だった私に、自信を持たせてくださった忘れられない作品である。 昭和31年に、村上桜ケ丘高校を卒業し、東京学芸大学に進学した私は、卒業後東京の公立中学校の教師として34年間勤務した。村上を離れてすでに50年になろうとしているが、ふるさとへの思いは薄れるどころか、年齢を重ねるごとにいっそう深まるのを覚える。離れて久しいふるさとの思い出として、冒頭に掲げた小学校時代の恩師のことについて書いてみたい。 昭和22年に、本町小学校と町学校が合併して村上小学校となり、私たちは隣りの町学校の校舎へ移った。この年から卒業までの3年間担任していただいたのが伊與部芳治先生である。当時としては、ユニークな体験をいろいろとさせてくださり、心の襞にあざやかに刻みこまれた思い出が多い。 印象に残っているのが、先生が宿直の夜、みんなで学校へ遊びに行ったことである。畳敷きの宿直室で、幻灯(スライド)を見せてもらうのが何よりの楽しみだった。暗い校舎を、胸をドキドキさせながら先生と一緒に巡回したことも忘れられない。 特筆すべきは、夏休みに鷹ノ巣温泉へキャンプに連れていってくださったことである。川原にテントを張り、石を積んでカマドを作り、飯盒でごはんを炊いた。星空の下で先生からいろいろな話を聞いたり、キャンプフアイヤーをやったりした。全てに新鮮な感動があった。当時、小学生をキャンプに連れていってくださる先生はまずいなかったと思う。どんなに大変なことだったかと、頭の下がる思いである。 6年のとき、当時ベストセラーになった『ビルマの竪琴』(竹山道雄著)を、毎日休み時間に少しずつ読んでくださった。みんな引きつけられて、この時間が待ち遠しかった。全部読み終えたところで感想文を書き、文集にして著者に送ったらすぐ返事が来てまた感動した。卒業してからのクラス会の名が「竪琴の会」と命名されたのも、みんなの印象のいかに強かったかを示している。 冒頭にあげた俳句のほか、詩、作文なども先生にはよく褒めていただいた。私が教師になって以来、現在に至るまで短歌を趣味として続けているのも、振り返ってみれば、この頃に文学というものへの関心と自信を持たせてくださったおかげとも言えるかもしれない。 また、人一倍内気だった私が、長じて教師の道を選んだのも、かの小学校時代の良き思い出が残像としてあったことが一因としてあげられる。本来は小学校教師が希望であったが、就職期はちょうど戦後のベビーブーム生れの中学生急増期にあたり、やむを得ず初志とは異なる中学校の教師になったが、34年間この職にあったことに悔いはない。 先生ご存命中に、私の歌集を読んでいただけたのは嬉しい限りであった。また、先生が編集委員の一人でいらした昭和59年の「文芸むらかみ」(第5号)に、私のつたない短歌を寄稿させていただいたのも光栄なことであった。すでに冥界にいらした先生のみ魂の安らかなることをお祈りしてペンを置くことにする。 懐かしい「竪琴の会」のみなさん、お元気でしょうか。 |
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