リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.40 |
||||||||
六月頃鮭っ子物語に村上についての執筆依頼をいただいた。筆者は東京に生まれ、仕事の関係では茨城県、最近まで住居は神奈川県であった。しかしながら村上には年1〜2回は行き短時間ながら所々を訪れている。これは幼い頃からの心の故郷としての村上があるからであろう。一つは戦前の幼少の時、村上から送られて来た塩引きが暮から正月の食卓に欠かせないものであったこと。その頃から味は可成り塩辛く、我が家は酢に浸して食していた。もう一つは亡母が好んで集めた堆朱である。茶卓、茶筒から始まり、硯箱 文机、茶箪笥迄、あの朱色に囲まれていた。このように味覚、視覚から村上が離れぬ存在になっていたものと思う。 元の本籍は村上本町千六百五拾七番で三代前の曽祖父より村上における歴史が始まっている。今回は村上に特にゆかりのある曽祖父よりの大和田家を紹介さていただく。 曽祖父清晴は村上藩士として生を受け、明治維新後は、英国人宣教師であり医師であったパームより医学を学んだ。後に押川方義よりキリスト教の伝導を受ける。村上で押川が清晴を説得したことが清晴次男猪平の話として伝えられている。それは明治11年頃である。明治16年、新潟教会(現在の東仲通教会)第3代の牧師になり、後に第8代に再任して、新潟県のキリスト教の布教に努力する。明治38年その職を辞し、医者に戻り約20年間神戸で開業する。昭和2年84才で没する。鮭っ子物語bP7の加藤勝弥氏も明治17年新潟の教会で受洗されており、同時代ご一緒に仕事をさせていただいたと思う。 清晴の長男第2代目の虎太郎は医者の道を選んだ。しかし27才の若さで一男三女を残し、この世を去ったため、記録に乏しい。生まれは慶応元年(1865)、村上町庄内町120番地となっている。明治12〜15年迄、済生学舎で理学、化学、各種医学を学び東京に出る。明治16年僅か20才9ヶ月で医術開業免許を得ている。明治17年カツ夫人と結婚、後述の長男愛羅を含む三女をもうけた。しかしながら明治24年当時流行のチブスに倒れ、陸軍二等軍医として仙台市でその生涯を閉じた。後に愛羅が「父は大の勉強家で机に向かった畳が腐った」と筆者等に教訓を与えている。 第3代目の愛羅は清晴の牧師、虎太郎の医師の道を継がず、音楽家となった。明治19年東京に生まれたが5才の時父をなくし、母カツ、妹達と新潟に帰り清晴の保護を受ける。 カツは教会の奉仕を行う。明治33年愛羅の妹エミとともに新潟の教会で信仰告白を行った記録がある。新潟中学校の在学中、当時声楽家として有名な新潟師範学校の音楽教師青木児(ハジメ)に認められ、東京音楽学校受験の志を固める。音楽学校では声楽(バリトン)、チェロを勉強し、明治42年同校を卒業する。更に2年研究科に在籍、終了後東京府女子師範学校に明治44年より務める。 音楽活動については別の機会に譲るが小学唱歌「汽車」は明治45年に作曲、他に童謡、歌曲など100曲余を作曲している。昭和37年76才で没する。 以上説明させていただいた3名は何れも村上市塩町安泰寺に永遠に眠りについている。 |
|
|||||||
|
|
|||||||
|