人は 元来 帰巣本能を有している様に思われる。そして又その本能が、歳を経ると共に強く磨かれていく様な気がしてならない。
過ぎる5月の連休、春風と回帰心に誘われ 日本列島を遡上し 村上駅に降たった。
緑滴るの時候であり見上げる臥牛山と遠くに望む朝日連峰がいつものように暖かく迎え包んでくれるのを有り難く感じながら、こみあげる感情を禁じ得なかったのは私一人では無かった筈である。
私が生まれ育ったのは、三面川の河口から遡ること十数キロ上流の布部(朝日村)の三面川河畔であった。当時はまだダムもなく清流が石を噛み、かじか の鳴き声と川瀬の音で眠れなかった夜のことを何十年たった今でも鮮明に記憶している。
今、川の瀬音を枕に実家の布団に横たわり地酒の心良い酔いごこちに身を任せ浮かんでは消えて行く、過ぎ去った幼な時代を天井に描きながらいつの間にか深い眠りに落ちていったものである。
翌日眩しい朝の陽光で目が覚めた。木々の緑とツツジの甘い香りが昨夜の飲みすぎから私を解放してくれた。
笹川流れに行って見よう ふとそう思った。想い出 はタイムスリップし夢多き高校時代へとデートバックした。
その頃土曜日など学校の授業が早く終わった時には よく笹川流れに泳ぎに行ったものである。海中で取った新鮮な さざえ を海辺で焼食したその味は何十年たった今でも忘れることが出来ない。目をつむると級友の顔が浮かんでくる。特に 市岡 靖二君(残念ながら故人。市岡貞雄氏−本誌第10回筆者は実兄)はさざえ取りが実に巧みであったことを記憶している。
今、その懐かしい笹川流れを目前に人を圧倒して止まぬ雄大な景観に接し思わず村高校歌を口すさむ程の感動を覚えたものである(海府の浦は千仭の崖に千歳の松青し)。私も下手の横好きで水墨画の世界にひたっており、墨の濃淡による幽玄の境に時を任せているが、その絶景を前に思わず別添の拙作を描いてしまったのでご笑観頂いたなら 幸甚である。
久ぶりに臥牛山に行って見ようとのことできれいに整理された山道を甥と二人で上った。
頂上に着き苔むす石垣を見た瞬間四十数年前に舞い戻るのに時間はかからなかった。
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白い雲が流れタバコの青い煙がゆっくりと揺らぎ散り残った八重桜の木々と崩れ落ちた石垣の間を風が通り過ぎ街の騒音が、潮騒の様に下のほうからわき上がってくる光景だった。 |
昔とちっとも変わっていない。
過ぎ去った甘酸っぱい想い出に身を委ねながら目を遠くに移すと鮮やかに光る日本海が横たわっていた。
数日後、私は村上駅の いなほ の車中にあった。ふと窓外を見ると大きな白色の蝶が(季節外れの)私を見送ってくれるかのように飛び交っていた。
市岡 靖二君(前述)ではないのか? 市岡!私は思わず呼んでいた。答えるかの様に大きく羽ばたいたような気がした。
汽車はゆっくりと動き始めた。
みるみる窓外がかすみ、、、、私の感傷を乗せ汽車は故郷を後にした。
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