リレー随筆「鮭っ子物語」 No.36 |
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私の村上での生活は、昭和20年の夏から始まり村上本町小学校 中学 高校卒業までの12年間であり、忘れ得ぬ故郷となって生きている。父の職業は営林署に務めており、兄弟姉妹と生まれた処が、各地にあり、思いもそれぞれ違う。私は千葉市長州町で生まれ、その後新宿町で生活、小学校に入学はするが、登校はするも空襲警報のサイレン音ですぐ家に帰ってくる日々であった。20mも歩くと東京湾千葉の海だ。富士山が海にくっきりと映える様や干潮で遠浅になるとアサリ・ハマグリ・小魚などバケツで捕ってくる。母が味噌汁にして作ってくれた思いはつきない。 (村上大祭の日)昭和20年7月6日夜半よりアメリカのB29が東京を空襲した帰りか、千葉市の上空を焼夷弾を落としながら飛び去って行く。各地で家が焼け火の手が上がる。父兄も屋根に上がって様子を見ていたが、風向きが変ると、母は私たちを起こし、着替えさせ、海岸の石積みの下へ避難、布団を被って震えるのみ。海水が足元をヒタヒタと寄せては返す様が脳裏に思い出される。火勢が強くなってくると、火の粉の降って来ない方へ、海水の中を母は妹を背負い、弟の手を引き、私と兄と手を繋ぎ、胸に抱かれ、神明町の砂浜まで行く。恐怖で声も出ず、7月7日夜明けと共に大雨が降り海水に濡れた衣服を流してくれる。朝と共に家のあった方へ行くが焼け野原、当然家は灰となっていた。防空壕の中に入れてあった家財類も、すっかり焼失、父は家を守るといって家族とは行動せず、探すと砂浜に俯むき、煙に捲かれ両眼が開けられず、茫然自失、何も見えないと訴えるだけ。家族が無事である事を知るのみ。何も食べ物なし。それでもアサリ工場のあった処へ行くと、膨張した缶詰を拾って来たり、釜の米が炊き上がり、こげた飯を口に入れ一応は飢えを凌ぐ。トタンで仮家を作り、二夜ほど過ごす。「戦災証明書」をもらい、7月10日、上野発秋田行の列車に乗るが、満員で身動き出来ず、母はバケツを下げ、財布を持っていたが、気が付いた時は紛失(スラレた)。全て失った着のみ生活が村上で始まった。 父と母方の実家と分れ、食糧の乏しい貧困な毎日である。8月下旬、三之町の古い武家屋敷へ移り住み、村上本町小学校へ編入、苦手とする勉強が高卒まで続く。貧乏とは「遊び」の方へ頭が回転する。 お城山にはよく行った。藤の蔓を切ってぶら下がり「ターザン」ごっこ。帰りは滑り下り、漆の木で体中かぶれ、痒みが何日も残っているのには参ってしまった。 朝日飯豊連峰が春に白く輝く様は、いつか登って見たいと眺めていた。下渡山、三面川、そして海、瀬波、岩ヶ崎の海にも歩く。体は白い粉、汗でベタベタで帰ってくる。三面川には川原に出ると服を脱ぎ、裸姿になると石の上を上流の方へ行き、流れに乗って下ってくる。水鏡とタモでハゼ・カジカなどを捕り、背中が火脹れとなり、寝付く事が出来なかったりする。子魚は串に刺し、囲炉裏で焼き、味噌汁となってくる。この味は忘れ難い。 子供達の泳ぐ姿が見えない。石コロはヌルヌル、カジカが捕れなくなった三面川。どうなってしまった?。野球も三角ベース、球、バット、手作りだ。ピンポン(卓球)も裁判所の中へ入りラケットと球を借用(当時の職員の人に感謝)。冬はソリ、下駄スケート、馬車ソリが来ると後方に掴り馬主に怒られたり、裸足で雪の中を走って来て、足がポカポカになると布団の中へ!! 家の雪降しも大変だ。踏み抜かないよう用心、押えの石を動かさず(木端と石の屋根)雪降し、雪解けの中に石が2ツ3ツ転がったりする。 村上の子供時代の「遊び」は現在元気で過ごす事の出来る源泉だと思う。高校は山岳部で鳥海山、朝日岳、飯豊山、八海山などを登っている。年の瀬になると、弟が塩引鮭を送ってくれる。塩梅が良く、味も良し。子どもたちにも喜んでもらっている。「糠いわし」もうまい。味は忘れ得ぬものである。 家から筑波山を望む事が出来る。年に2〜3回はどは山登りで楽しみたいと思っている。
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