リレー随筆「鮭っ子物語」 No.35 |
||||||||||||
1.村上駅から各駅停車の列車に乗って北へ向うと、6つ目の駅に「勝木(がつぎ)」という名の駅がある。 このあたりは、現在は「山北町(さんぽくまち)」地内であるが、昭和30年の5ヶ村の合併前は「八幡村(やわたむら)」地内であった。八幡村地内の集落の1つに「碁石(ごいし)」という集落がある。この集落は日本海に面しており、海岸には囲碁の碁石状の砂利がたくさんある。このことが碁石という地名のおこりではないか、と勝手に考えている。 私はこの集落に生まれ、育ち、八幡小、中学校を卒業した後の昭和26年に村上高等学校に入学し、3年間、安富良英先生の教えを受けた。その後上京して、中央大学に入学し、当時同校の教授であられた稲葉修先生のご指導をいただいた。その後、弁護士になり、現在に至っている。 2.このように、私は村上の鮭の子ではない。しかし、鮭には縁がある。私が小、中学生の頃、碁石集落の漁師達は、秋も深まる頃、共同で鮭をとるための建網をたてた。集落から1キロくらい離れたところに番屋があり、漁師達はここに待機し、1日に何回か網おこしをした。十数名が手漕ぎの大型の船に乗り、港から立網のあるところまでいき、網に入った鮭を船にとりこむのである。 3.私は海と魚と釣りが好きで、番屋にはよく遊びに行き、波の静かなとき、網おこしの船に乗せてもらった。建網の規模があまり大きくなかったせいか、一回の網おこしでとれるのは数十匹であったように思う。百匹近くもとれれば、漁師達は大漁と喜んだ。とれた雌鮭の中には卵が熟し、それが産卵口からもれ出しそうになっているものもある。ときに漁師はそこに自分の口をあて、卵をすすり飲むことがあった。私も試させてもらったことがあるが、生臭い、という記憶が残っている。 漁師達は、鮭が千匹とれる毎に、「千本供養」としてそのことを書した卒塔婆を集落の墓地の外に建てた。それにより、その年どれ位とれたのかが分かるものであった。 4.海でとれた鮭を食べ慣れている私ども海辺の人間は、川に入った鮭は脂が落ちて味が落ちる、という。川でとれた鮭を食べ慣れている人々は、鮭は川に入った方が味が増す、という。川でとれた鮭と海でとれた鮭とでは本当に味が異なるのか。慣れなのか。或いは贔屓の自慢なのか。 鮭博士にご教授いただきたい。
|
|
|||||||||||
|