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リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.43
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ひょっとして、私はここに書く資格がないではないかと、先輩からの原稿依頼(命令?)に簡単に返事した後で考えた。というのは、私が村上でまともに暮らしたのは、中学校2年新学期から高校卒業までの5年間でしかないからである。しかも住んでいたのが堀片で昔のいわゆる本町だったので“お祭り”でおしゃぎりを引いたことも、“七夕”で笛を吹いた経験もない。せいぜい知っていることと言えばお城山の山の神様のうらにタラの木(天ぷらにするとうまいタラの目の親)が5,6本あったと、同じお城山の裏側に大きな山椒の木があって実や葉っぱを摘んだこと、羽黒山のこれも裏山で昔の火葬場の屋根が見える所に茸が沢山採れる場所があった、ということを覚えているだけである。
そんな私が村上のことを書けるとすれば、5年間ほとんど毎日夕方になると往復した村上駅までの道のりのことぐらいである。父親の仕事の手伝いということで、小学校に入学した時から高校を卒業するまでの間ほとんど毎日駅まで往復したものである。
堀片の住まい(すずめやから50m位三之町寄り)を出発、左にクワイの植わっているのを見て三之町の坂を上がる。小学校に突き当って三之町通りを左に。小学校の前庭を通り小町の第四銀行を左へ、トラヤと信用金庫(警察?)の間小路を入り、新多久の前を行く。塩町からの道との丁字路を和泉屋の方へ曲がる。寺町の通りを3軒のお寺を右に見て松竹館の方へ進む。坂のお寺の所を左折して小国町へ。大通りをつっ切って郵便局の横を飯野へ向かう。しばらく行って、そこには特に目印になるものはなく普通の民家の間を桜ヶ丘の方へ右折する。昔は長く感じた飯野の町を進み桜ヶ丘を過ぎたところを茶畑の方へ左折する。桜ヶ丘を左に茶畑の間を歩く。(書き忘れたが、我が家は父親が乗らないせいで自転車はなかった。したがってどこへ行くにも徒歩!)
桜ヶ丘の校庭とグランドの境目を左に見て茶畑の中を右に入る。精錬所の社宅(だったと思う)を左手に村上病院の方へ真っ直ぐ。病院の裏木戸を入り(なぜかいつも開いていた。)構内を過ぎ表門を出れば田端町。村上駅はもうすぐである。
駅では手荷物の係のところで父親から預かった荷物(紙袋に入った新聞原稿、大人になって友人の新聞記者に“バック便”ということを教わった。)を小荷物扱いで託し、受取の甲片をもらい、また今来た道を徒歩で家まで戻るのである。
この道のりは、春秋は快適であった。春は桜ヶ丘の桜がきれいだったし、秋は澄んだ夕空にカラスの群れが下渡山の巣へ帰るのを眺めながら歩いていった。夏は真正面から西日、雪はときどき目も開けられないような吹雪の日もあった。
こんなことを、小学校(当時は新発田だった。)から高校までほとんど毎日、(もっとも、土曜日は父親が書くことを休んでくれたし、春秋の中日と正月2日は休刊日だったので休み。)1年300日以上くり返してたのである。あれからもうすぐ50年になる。
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益田 紀雄
(ますだ のりお)
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昭和29年3月新発田市立外ヶ輪小学校卒業
千葉県庁、自営を経て(株)オリエンタルランド勤務。
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現在の飯野桜ヶ丘地区 |
現在の桜ヶ丘高校 |
今も残る女学校時代の校門 |
村上病院の抜け道 |
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リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部) |
「鮭っ子物語」バックナンバー |
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次回予告 |
鶴橋 康夫
(つるはし やすお)
荒川町生まれ
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