リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.42 |
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私が村上に居を移したのは中学1年の途中でした。 私は昭和13年に、岩船郡黒川俣(現在の山北町)字北中に生まれました。小さな村でした。 当時は、まだ小作制度が残っていました。 地主だった祖父が、北海道に住んでいる事もあって父が代わりに管理のため北中に住む事になったようです。北中は、山林、田畑が中心の農村地帯でした。小学校に入学をした私は、子供と言えども農村の子、田植や稲刈の手伝い、さつまいも堀りや、じゃがいも掘り、冬は、冷たい小川で泥の付いた大根洗いもさせられました。他に学校の授業として、いなご採りやぜんまい採りの作業がありました。ぜんまい採りは山に入っていきますので夢中になって取っていますと迷子になりかけた怖い思いをしました。でも楽しい事も沢山ありました。 8月12日お盆の前夜、わらで作った馬の人形を葛(クズ)の蔓草(ツルクサ)の上に乗せて、その蔓(ツル)を紐にして、子供達が村の中を引き回して歩くと言った楽しい行事がありました。その馬は翌朝村の外れの川に流しに行くのです。それに乗って、ご先祖様が戻って来るそうです。(こうした、言い習わしがありました。)盆踊りは村の社交場でした。夏の川遊び、冬は雪遊び、と自然を相手に退屈は致しませんでした。それから食べ物も忘れられません。山菜、栗や山ぶどう木苺、桑の実は食べた後、葉はお蚕さんに食べさせ、枝は皮を剥いて紙の原料にしました。 私達子供も手伝いました。お蚕さんも紙の原料も村にとっては、大切な現金収入でした。 それからお米、無農薬野菜、山から流れてくる飲み水、皆自然食品です。子供の頃のこうした食事や手伝いは、現在私が元気で過ごしている源になっています。 私が村上に居を移す事になったのは、敗戦と同時に地主制度が廃止され、両親は暫く残って田畑を耕して居りましたが、元来農業は、ずぶの素人だったので、人の手を借りての、田畑の仕事は無理だったようです。両親は、村を出る決心をして、村上に出てまいりました。私達の住んだ所は二之町でした。 村上の町は新鮮でした。家の廻わりには、小、中、高が目と鼻の先にありましたので、通学は恵まれました。隣は裁判所で、目の前には朝市が月6回開かれ、お城山の直ぐ側で、村上の文化の中心と言った所でした。 文化と言えば、三面川の花火大会、村上大祭では各町内のおしゃぎりの行列に、目を見張りました。近くには海と温泉の町、瀬波がありました。村高の時全校で瀬波に歩いて海水浴に行った事を思い出します。私は生まれて高校を卒業する迄の18年間二つのふる里を持てた事は生涯の糧になって居ります。 今、同級生と村上の食べ歩きや、温泉めぐり、ひな人形めぐり、堆朱細工めぐりして、里帰りを楽しんで居ります。何時迄もこの二つのふる里が、元気で居てくれる事を祈ってます。 |
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