リレー随筆「鮭っ子物語」  No.25

思い出・安澤操先生の白いブラウス

 
 この四月二日で私は満七十歳の誕生日を迎えます。十年をひとむかしとよく言うが、七むかしも前に生を受け長い道のりを歩いて来たことになる。つらかったこと、悲しかったことも多かった筈なのに佳い想い出ばかりが脳裏に残っている七十年。そしてこの節目を機に父の任地だった村上の街と恩師安澤操先生に想いを馳せる機会をいただいたことに感謝します。

 私の父は国語・漢文の教師として旧制村上中学校で二年半余り教鞭をとっていた。七歳で本町小学校に入学した私が二年生に進級して間もなく新潟市に転勤した父に連れられて村上を去る迄の一年余りは、豊かで楽しい想い出に満ちている。最近はTVを見ながら、良い歌だな、覚えておこう”と歌詞をメモしておいた筈の歌を、多忙な日々の中でいつの間にか忘れ去っても、小学校に入学して初めて教わった本町小学校校歌の一番だけは、今でもすらすらと歌えるほど耳の奥に住みついている。また出合った人の名前をよく忘れがちな今でも、小学校に入学して強いインパクトを受けた初めての担任・安澤操先生の想い出は不思議にも昨日のことのように鮮明に脳裏に焼きついていて、目を閉じると、いつまでも若き日の先生のお姿が瞼に浮かんで懐かしい。あの白いブラウスと紺色のスーツに身を包みキビキビと教壇に立って居られた先生は子供の目にはまぶしくて高い高い憧れであった。

 ふり返ると今のように学習塾やスポーツ教室などもなく、おけいこごとに追われることもない、のどかな日々であった。学校から帰って最小限の勉強を済ませると飼っていた二匹のうさぎのために、家の近くの中学校の校庭の隅でクローバーを摘むのが日課になっていた。
摘みながらたまには風の流れにのって聞こえてくる父の声に耳を傾けることもあった。
 ある日の夕方、たまたま学校から帰宅される先生にお会いした。「毎日よく頑張って摘んでるね」と賞めていただいたことが嬉しくて、貴重面にもそれからはクローバー摘みの日課をサボったことがなかったように覚えている。その日の先生は紺のスーツに白いブラウス、――太平洋戦争の開戦の直前の時代で、白いブラウスといっても今風のレースやフリルの飾りやピンタックをつまんだおしゃれなものではなく、シンプルな開衿だったと覚えている。清々しく若さそのものの先生であった。その頃「大人になったら何になりたい?」と聞かれたら、私はためらわず「安澤先生のような教師になりたい。」と答えていたと思う。
 入学した本町小学校もほどなく国民学校と名が改められ,二年に進級して間もなく父の転勤で私は村上を去った。

 十三年の月日が流れ、私は東京目白の女子大学二年に進み、学寮で生活していた.丁度その頃壷井栄さんの小説「二十四の瞳」が映画化され、学生間で話題となっていた。ある日曜日、山形から来ている同室の友人と新宿の映画館へ出掛けた。監督は木下恵介、主演は高峰秀子で、小豆島の岬の分校に赴任した新卒の教師大石先生を好演していた。画面に大石先生が大写しされた時、私はハッと胸をつかれる思いで目を見張った。スーツにブラウスの大石久子先生は、あの忘れもしない白いブラウスに紺のスーツの安澤操先生そのものに見えた。ちょっとおでこの(安澤先生ごめんさい)おむすびのような丸い顔、大きくやさしい目、八重歯がちょっとのぞく白い清潔な歯、――小学校一年生の時の安澤先生が画面から話しかけてくださるようであった。あの誰もが知っている童謡「からすなぜ鳴くの…」の”七つの子”がバック音楽として効果的で、大石先生と十二人の子供達とのあたたかい交流には胸がいっぱいで涙がとめどなくあふれた。
そして大石先生と安澤先生の面影が重なって見えた童謡”七つの子”の感動は、数年後勤務した放送局でもう一度体験することになる。

 昭和三十二年、私は放送局に就職し音楽番組のディレクター見習いとして働いていた。
アシスタントの省略語で、”アシ”と呼ばれ、ディレクターの必要とする楽譜やレコードの準備、生演奏の場合は楽団員に譜面を配ったり毎日コマネズミのような忙しさだった。
夢の教師志望はいつの間にか消え去っていたが朝のお目覚め音楽番組のスクリプトを書かせてもらえるようになると、嬉しくて充実した疲れ知らずの楽しい日々を過ごしていた。
 番組の中に、著名人をスタジオにお招きしてその方の好きな曲、想い出の歌をごいっしょに聴きながら、人生を語っていただくアナウンサーとの対談番組があった。ある日のゲストは壷井栄先生、私はまたまた感動で胸いっぱい・・・を味わった。先生は白髪の混じった髪をうしろで一つにまとめ、地味な縞模様の着物が良く似合っておられた。ふっくらした丸顔、眼鏡の奥の丸くやさしい目、気軽に笑顔で話しかけていただき緊張でコチコチになっていた私はホッとして気が楽になっていた。先生の思い出の曲のひとつに”七つの子”があげられて、副調整室の中で私は児童合唱団の歌うレコードを回しながら懐かしさで胸をふくらませていた。
 番組の収録が終って壷井先生を囲み、スタッフでお茶をいただいた。先生のお顔を見ながらふと思った。岬の分校の大石先生は年を重ねるときっと今の壷井先生のようになるに違いない。やさしく、あたたかく庶民的な普通のおばあさんの雰囲気で、でもどこかに芯の強さとりんとした風格を持っておられる。すっかり壷井先生が好きになってしまった。その夜帰宅して母に報告した。「壷井先生は安澤操先生とどこか似ていらっしゃったわよ。安澤先生も年をとられたら、きっと壷井先生のようになられると思う。」

 それからまた四十年余りの月日が過ぎ去った。
本町小学校校歌の一節にある早瀬をのぼった若鮭も、今はもう川の淵に身を休める老鮭の年令を迎えた。でも私はまだ落ち鮭にはなりたくはない。年令に合わせてギアチェンジして減速しても社会に役立つささやかな仕事に幸せを感じたい。
 あの日の壷井先生も、両親も早この世を旅立ってしまった。でも、ご健在でいられる安澤先生に時々は励ましていただき元気の素をいただきながら、ゆっくりと残りの人生を歩きたいと願っている。

                  
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)






小日向 惇子
(こひなた あつこ)

村上本町村上尋常高等小学校在席
NHK家族・教養番組担当チーフディレクター
学校法人NHK学園編集主幹を経て
現在特殊非営利活動法人「日本パーソナルカラー協会」事務局長






当時の筆者




上の写真の裏面




昭和15年4月入学1年生
(村上本町村上尋常高等小学校)
校長先生 阿部 善三郎
一年生担任 安澤 操 




阿部校長先生の右後ろが筆者





「俳句入門」撮影後のスナップ
前列右が中村汀女先生、左が平岩毅アナ、
後列右マネージャーの中村さん(お嬢さん)後列左はスタッフの諸田さん中央筆者。







次回予告
水野 貞(みずの ただし)
昭和24年3月村上小学校卒業

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