若者よ世界に羽ばたけ
―諸君の活躍の土俵は、大きく広い
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今から丁度半世紀前1953年8月15日、私は“我を入るるに狭き国を去らんとすれば・・・”の「北帰行」を口ずさみながら、涙腺からしたたる涙をコブシでこすりつつ横浜の港を後にしました。僅か1,500トンの貨客船高栄丸の狭苦しい船底ではありましたが、米国留学の希望を胸一杯膨らませつつ、シアトルまで2週間の船旅に鹿島立ちました。
甲板掃除に皿洗い、ベット・メーキングに船員さん達の下着の洗濯。早朝から深夜までマメに働きながらの三食昼寝つきの無賃旅行。その上高度なエンジンの構造に航海術の講座は、連日その道の達人でもある船長さんと機関長さんの特訓つきでした。
短いようで、長かった。臥薪嘗胆の苦学生時代。戦争中の14歳〜16歳の仙台陸軍幼年学校におけるシゴキの猛訓練を思えば、それ程苦痛でありませんでした。肉体を鍛えることによって魂と精神との会話が可能なことを、私はお蔭さまで習得できていたのではないかと思います。それに北国の新潟生まれの私は、北の防衛の任に就く配属要員であったのかロシア語の特訓を受けました。そのためもあって、英語はからしき駄目。
毎晩100ページ熟読することが必要十分条件だったあの頃の七転八倒の毎日を想起する時、身の毛がよ立つ思いです。日本ではもちろん、アメリカでも最低6時間のアルバイトで口を糊するために、汗を流さざるを得ませんでした。しかし、苦学のお蔭で、経営学を専攻した私は、貧しい、苦しい、不運な人々、就中黒人社会を垣間見ることが出来ました。ジャズが無性に好きになったのは、ニューオルリンズで黒人とクーリーもどきの仕事に耐えた頃の生き抜きの一齣がそうさせたのかも知れません。
会計学の主任教授、Professor Bert
R. Prallは私に何時もこうおっしゃいました。“Takeshi,
remember this saying; to know is nothing, yet to create is everything”(知るだけでは何の価値もない。創造することこそが、全てなんだ)
時代が急に変わりますが、私がスタンフォード大学を訪れた当時(1990年)ノーベル賞を受賞した教授が、10数人もおられました。該大学は、「出る杭は打たれる」を排し、「出ている杭を引き抜け」をモットーに人材を発掘しておられると聞きました。
年月が経ち、私は幸運にも今や、世界の主要国(アメリカ、フランス、イタリア、カナダ、トルコ、オーストラリア等々の国々)から招聘されて、講義をして参りました。多くの階層の人々と交流の輪を広げることができました。幼少の頃のロシア語の学習は、今では希少価値になりました。
申し上げたいことは、山積しております。当年とって75歳。私は、40年近く奉職した東京理科大学の学生諸君は勿論、心ある希望に溢れる若い前途春秋に富む諸君の為に、残された寿命を燃焼し尽くしてまでに、熱いエールを送り続けるつもりです。
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部) |
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菊地 武
(きくち たけし)
(村中45回、新制村高1回卒業生)
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筆 者 |
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国際的に著名なフランスのグランド・エコール(高等専門学校:大学院に相当する)HEC(アシュセ:経営学専攻:宮殿で有名なヴェルサイユ市の郊外に所在:広大なキャンパス:東京都にこれ以上に広い公園は少ない)/厳しい振るいにかけられたエリートの粒ぞろい。
語学力(少なくても英・仏語)は抜群。個性豊か。男女学生夫々半数。学生の半数は外国人。教授陣は、自大学出身者は稀。外国人教授多数。 |
HECでの講義(事例もとづく討論形式を採用) |
University of Palermo(イタリア・シチリア島所在:有名大学)に所属するMBA(経営学専攻の大学院)コース(isida)で講義。右の方は、国際的に著名なProf.&Dr.Gabriel
Morello(ガブリエル・モレロ教授)このコースの創設者。筆者の親友。日本に招聘して諸大学・企業で講演。
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次回予告 |
小日向 淳子
(コヒナタ アツコ)
村上本町村上尋常高等小学校在席
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