リレー随筆「鮭っ子物語」 No.30 |
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担任は安沢操先生、若くて美しい先生でした。始業式の日、教室で先生はご自分の名前の読み方と意味を教えて下さいました。初めて出会った難しい字、それ以来「操」と言う字を見ると、いつも先生のことが頭に浮かびます。先生もご自分の名前に誇りを持っておられた様に感じました。いつも毅然とした態度の先生は「私は親からもらった黒髪にパーマはかけません」と言われて後ろできっちりと、まとめておられたのも印象的でした。 腕白な男子生徒には怖い先生だった等と聞く事もありますが、私の記憶では厳しい反面細かいところまで気を配って下さる心根の優しい教育熱心な先生だったと記憶しています。 当時、虚弱だった私は、5年生の時、新潟鉄工所の見学に行った折に、工場の独特な匂いに気分が悪くなり鉄工所の医務室のベッドで休ませていただく事になり、先生は見学もせずに付き添ってくださいました。そして後の父兄会でその事を知った母にひどく叱られました。私にはその事が面はゆくて母に報告しなかったのです。6年生の時には小柄で内気だった私に、何とか自信を着けさせたいと思われたのでしょうか、学芸会の劇の主役に抜擢して下さり、放課後は共演者全員毎日稽古に励みました。タイトルは忘れましたが、劇のなかで相手役の男の子と手をつなぐ場面がありお互いにとても困った事を覚えています。 又先生が産休でお休みの時には(多分孝雄さんがお生まれの時)皆で作ったエプロンや小物等を持って山屋の先生のお宅まで遊びに行った事、夏には笹川流れにキャンプに行って、皆で海水浴をしたり海辺で飯盒炊さんをしたり、夜は、桑川小学校の講堂でざこ寝をした事等、私の心は昔にタイムスリップしてしまいます。みな先生と共に過ごした懐かしい思い出の数々です。 戦争も終わり平和な時代になって小学校生活を送った事、よき師、よき友、豊かな自然に恵まれ、城下町という誇り高い村上で生活していた事に今改めて幸せを感じます。 そして故郷に想いを馳せているとき私の心は癒されるのです。 現在も先生は相変わらずお元気で地域の為に活躍されておられるとの事、嬉しく思います。 月日は巡り半世紀も過ぎた今、思いがけずここに一文を寄せる機会に恵まれ、村上の発展と村上にご縁の有る皆様の平和な日々を願って止みません。
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