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その田園風景を目にしたとき・・・こういうのを「DNAが騒ぐ」とでも言うのでしょうか・・・懐かしいというのか、村上の風景、お城山や鷲が巣山の景色が大きく脳裏に浮かんできて、何とも言えない気持になりました。まさに「ふるさとDNA」のなせる業だったのでしょう。 * * * ふるさと・村上を離れてから、早いもので、もう40年以上の年月が経ちました。 昭和34年、村上高校を卒業し、初めて親元を離れた仙台での学生生活の解放感といったらありませんでした。 実は、このコラムの纏め役をしておられる赤見さんが「鮭っ子物語<第1回・平成13年5月号>/我がふるさとの恩師の教え」の中で登場させた村上小学校の校長(松田直司)が私の父でした。赤見さんのコラムは、大変恐縮して拝見致しましたが、村上小学校の生徒であった私にとっては、父親が公私入り交じった複雑な存在でした。 自分にとっては、「校長の息子」からの脱却が大きな念願でした。村上では、世間が狭いこともあって、家の中でも外でも「校長の息子」という意識との戦いでした。したがって、村上を「脱出」したときの解放感は、上記の通り、最高でした。ややオーバーに申し上げると、「校長の息子」という視点が何処にもなく、「自由とはこういうものか…」と感じたことを今でも鮮明に記憶しています。 しかし、その父も、親子間で安保問題などを初めて対等に議論することが出来るようになり始めた大学3年の時に、ガンで亡くなりました。夏のとても暑い日でした。 その後、今日まで、自分の岐路に立った時や自分でも考えても見なかった銀行への就職を決める時など「親父がいたら、どう言うかな?・・」と自問自答するのがいつも自分なりの判断基準でした。 私も一昨年に還暦を迎えましたが、仕事が忙しかったこともあって、「還暦は単なるひとつの通過点」などと思って特に大きな感慨もありませんでした。が、ただひとつだけの思いは「親父の死んだ年になったな・・・」ということでした。 年齢だけは父を超えましたが、「親父からの脱却」はまだまだ出来ていない状況です。もっとも、「親」というのは誰にとっても、いつまでも「脱却出来ない存在」なのかも知れません。 * * * 私にとって、村上は「親」のような存在、「脱却することの出来ない存在」なんだという気が、最近、特にしております。 学生時代は、夏冬そして春の休みには必ず村上に帰っておりましたが、社会人になってからは、仕事の多忙さもあって、法事等の冠婚葬祭時以外はほとんど帰っておりません。 でも「村上」を忘れたことは片時もありません。春夏秋冬、それぞれの季節を感じる時になると、いつも 「村上は今頃どうかな?」 「昔は、こんな感じだったが、今の時代もやはりそうかな?」 などといつも思っております。 村上大祭の日になれば、おシャギリの姿が頭に浮かび、笛の音がどこからか聞こえてくる気がします。鮭が帰ってくる季節になると、三面川のせせらぎの音がハッキリと聞こえてくる・・・そんな気がしております。 また、毎日のことですが、テレビの天気予報を見るときは、東京・千葉の次にいつも新潟の天気が気になります。 そして、友達や会社の同僚には「村上」の話を良くします。正直言って、村上を知っている人はそう多くはありません。それでも、 「鮭が遡上するので有名な・・・」とか、 「雅子様の本籍地であった・・・」とか、 「〆張鶴の醸造元のある・・・」 などと言ってくれる人も増えてきました。なんといっても、やはり雅子様が村上を全国区にしてくれたようにも思います。 * * * この40年間、日本経済も激動の時代でしたが、金融機関及び情報産業の中に身を置いてきた私にとっても毎日が公私とも結構忙しく、でも、それなりに充実した日の連続でした。 その中で、いつも確実に私を支えてくれていたのは「村上」だったのかも知れません。特に苦しいとき、つらいときに支えてくれるのはふるさとなのではないでしょうか。ふるさとは「永遠の存在」なのだとしみじみと思います。 私もこの6月で「現役」を離れて、ソフトランデイング体制に入っております。 これからは時間的余裕が少し出来そうです。国内外あちこち旅行をしたい、少し歴史の勉強もしてみたい、ゴルフの腕ももう少し上げたい、出来たらささやかなボランテイア活動にも参加したい・・・などとこれからのことを思いめぐらせております。 が、なんといっても、先ずは、早い機会に村上に行きたい。そして、お城山にゆっくり登り、瀬波や岩ヶ崎の海をのんびり眺め、鷲が巣山や朝日連峰をじっくりと見たい。三面川のせせらぎの音を聞きたい。高橋君・松沢君・木村君、富樫君など同級生と語り合いたい。また、いろいろなところで21世紀の新しい村上の息吹を感じたい・・・そんな気持でいっぱいです。
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