キャロル・オットーと久野久子と大和田愛羅 |
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村上歴史文化館(村上市三之町7-17) |
キャロル・オットー Carol Otto ドイツ製(1902年頃製造) キャロル・オットー社は、1866年創立のドイツベルリンのピアノメーカーで、高名なベーゼンドルファー、スタインウェイ、ベヒシュタインと同世代。当時ドイツベルリンのピアノメーカーは、高い製造技術を持ち隆盛を極めていた。オットー社は、特徴のある装飾デザインの燭台付き、2ペダル式のアップライトピアノを多く製造しており、現在では数少ない貴重なピアノである。 久野久子 このピアノは、1906年頃から東京音楽学校生の久野久子さん(1886-1925、ピアニスト、後に東京音楽学校教授)が所有していた。久野久子は、15歳で東京音楽学校(東京芸術大学)に入学して洋楽に触れ、このピアノで猛練習に励み、日本のピアノ演奏家第一人者となりました。特にベートーヴェン作品の演奏家として有名で、その迫真的な演奏スタイルは独特であったと記録されている。 また、国内で多くの演奏活動を行い、大正初年、小松耕輔、東儀哲三郎、大和田愛羅の3者で発足した音楽普及会の客員メンバーの一人でもあった。 その後1925年、久野久子が、始めてのヨーロッパ修業中に自殺するハプニングが起きたあと、東京音楽学校の同窓で同い年の大和田愛羅が、久野久子の家族から遺品として託されたのがこのピアノである。 大和田愛羅(1886-1962)は、当時上野にある音楽学校に近い文京区本郷林町に家族と住んでいたが、愛羅の姪で東京音楽学校生であった佐藤文子さんが、結婚する時にこのピアノを譲り受けた。以来現在まで、娘の佐藤茂子さん宅で大切に使用されていたものである。 寄贈主 佐藤通次・文子夫妻遺族 大和田愛羅遺族一同 |
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大和田愛羅(1886~1962)の業績 | |||||
大和田愛羅は、明治19年3月24日(1886)村上出身の医師大和田虎太郎の長男として現在の東京都新宿区下宮比町に生まれる。 幼少(明治24年)の折り父が急逝、母カツと幼い3人の姉妹と共に新潟の祖父清晴の元で中学を卒業するまで生活する。祖父清晴は村上出身で当時新潟の教会(現在の東中通教会)の牧師兼医師であった。 愛羅の音楽の素養はここの教会音楽によりつくられた。明治38年新潟中学校を卒業、東京音楽学校声楽科(現在の東京芸術大学音楽学部)に入学する。 明治42年同校を卒業、引き続き2年間研究科に進む。在学中より専門の声楽(独唱)の他に合唱、作曲、チェロなど多種の分野も勉強した。 音楽家として初期の誌上の記事としては、①明治41年学校学友会でのシュ-マンの曲の独唱、②帝国音楽会での男声4部合唱。作曲としては明治43年吉丸一昌作詞の“福寿草”。また明治43年以降各地での独唱とあわせチェロの独奏、合奏が記録されている。 明治44年、東京音楽学校研究科を終了。東京府女子師範学校(現学芸大学)、東京府立第二高等女学校(現竹早高等学校)に就職して教育音楽の道を進むようになる。昭和21年まで30余年教職を通して教育音楽特に合唱の普及に活躍する。 明治45年(大正元年)、乙骨三郎氏作詞の汽車の作曲を行い、文部省唱歌に入選する。また同年日本の童謡の前身といえる吉丸一昌編集の児童唱歌(後幼年唱歌)第一集、第二集が刊行されその中で愛羅作曲のめくら鬼、荷車、飛行機の夢が採用される。(後に第六巻に蟹と海鼠が採用) 大正2年8月25日、愛羅は、新潟県新発田市出身の坪川きくと結婚する。 仲人は、恩師の吉丸一昌教授にお願いしている。子供は四男一女授かる。 大正4年4月に小松耕輔、(ピアノ)、東儀哲三郎(ヴァイオリン)、大和田愛羅(チェロ)の三人が発起人となって「音楽普及会」を創り西洋音楽の普及に努める。国内、満州を含めて大正8年まで30回の演奏会を行っている。当時第一線の音楽家に共演して戴いているが、当初は上記の三人が自ら水道橋、春日町、本郷三丁目などで券を配った事もあるようである。 大正11年、東京混声合唱団の理事に就任。合唱活動の第一歩である。 昭和5年、文部省唱歌の見直し及び新唱歌編集のため日本教育音楽協会の委員に任命される。 昭和11年、愛羅作曲の“願い”が国民歌謡に入選する。 昭和12年10月、信時潔作曲の“海ゆかば”の日本放送協会(現NHK)の初放送に参加、四部合唱、愛羅の指導したオリオンコ-ルが合唱をする。信時潔とは生涯を通して無二の親友であった。 昭和12年11月、日比谷公会堂で千人大合唱という名前で橋本国彦氏と愛羅とで混声合唱の指揮をとる。 昭和16年、国民音楽協会合唱コンクールで小松耕輔、大和田愛羅が育てた女子合唱団ホワイト合唱団が全国で第二位、女子の部としては第一位に入賞する。 昭和17年7月、国民音楽協会の役員になる。 昭和21年、永年にわたり努めた女子師範学校、第二高等女学校を退職する。引き続き東京音楽学校(昭和24年より東京芸術大学音楽学部)の講師、教務嘱託に就任する。以降下記に示すような音楽活動に従事した。 昭和36年11月、脳梗塞により病の床につき、半年の闘病生活の後、昭和37年8月11日帰らぬ人となる。 主なる職歴、教職先 昭和20年以前 東洋音楽学校、国立音楽学校 中等教育連盟合唱団------オリオンコール、ホワイト合唱団 昭和20年以降 日本女子体育大学、上野学園大学、教授 共立女子高等学校、国士舘大学、 講師 東京芸術大学同声会常務理事 日本教育音楽協会理事 関東合唱連盟(旧国民音楽協会)理事 著 書 「中学教育女子新音楽」等があり、文部省の選定教科書となっている。 また編集に携わった教科書も多数。作曲は校歌を含めると150曲に上る。 趣味、嗜好 狩猟は群馬県中之条地区、栃木県渡瀬地区など毎年解禁日前夜に出かけた。投網は千葉県外房州の浪花海岸で、ここでは夏の40日間一軒の家を借りて家族は勿論のこと親戚、友人を招き愛羅が良く言っていた「頭は文明化に身体は野蛮に育つこと」を実践して30数年続いた。文京区小石川の家から近かったせいもあり、春は荒川の土手で大家族集合の土筆採りが恒例の行事となっていた。冬の狩猟で世話になる四万温泉の湯治も楽しみの一つであった。食は好き嫌いなく肉類、魚類なんでも大丈夫で趣味により捕れた鳥、魚類も自分で調理する健啖家であった。酒も戦前は日本酒、ビール、戦後はこれにウィスキーが追加。酔うほどに歌った江差追分、佐渡おけさは絶品であった。明るい酒であった。人情家であり本人が幼い時に父を亡くして淋しい思いをしたせいか親戚、友人など大勢が集まってのにぎやかで健康的な笑いの場が好きであった。 |
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資料作成:大和田清 桂暢生 桂幸子 |
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大和田愛羅唱歌祭(H18.9.18) 於:村上歴史文化館 (村上市三之町7-17 電話0254-53-3666)
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