![]() 再建が待たれる上野大仏 |
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上野大仏は、寛永八年(1631年)越後の国村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、戦乱に倒れた敵味方将兵の冥福を祈るために土で釈迦如来像を造立した。 青銅大仏 明暦・万治の頃(1655~60年)木食僧淨雲師により銅佛に改められた。 仏 殿 元禄十一年(1698年)露座の大仏に仏殿が建立された。 改 鋳 天保十二年(1841年)火災に遭い、天保十四年、末孫堀丹波守直央公が大仏を新鋳し、また大仏殿を再建した。 大正十二年関東大震災によって佛頭がおち、寛永寺にて保管、その後、佛体は解体され第二次世界大戦時に献納された。 昭和四十七年春彼岸、尊顔を再び旧地に迎えて祀り、再建を計る一助とする。 昭和四十七年春彼岸 |
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![]() これ以上落ちないとして合格祈願 |
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上野大仏 パワースポットとしても人気(上野精養軒近く) |
![]() 向かいの小山には、上野時の鐘 |
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| ChatGPTより要約(2026.01追記) |
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| 上野大仏(うえのだいぶつ)は、東京都台東区の上野恩賜公園内にある仏像で、正式には上野寛永寺大仏と呼ばれます。現在は顔の部分しか残っていないことで有名です。 歴史 • 建立:寛永8年(1631年)、越後村上藩主・堀直寄が戦没者供養のため鋳造したのが始まり。 • 材質:当初は青銅製の釈迦如来坐像、高さは約6メートル。 • 災難の歴史: o 地震:江戸時代からたびたび地震で損傷。 o 関東大震災(1923年)で頭部が落下。 o 戦時中には金属供出で胴体部分が失われ、顔だけが残った。 • 現在:残った顔は「上野大仏パゴダ」と呼ばれる小堂に安置されており、参拝可能。 現在の姿と意味 • 顔のみが安置されているため、「これ以上落ちない」(受験や試験に落ちない)という縁起物として人気。 • パゴダ(仏塔)は1972年に再建されたもの。 場所 • 住所:東京都台東区上野公園4-8 上野東照宮や清水観音堂の近くにあります。 見に行くと、顔だけが微笑んでいるように見えて、どこかユーモラスで親しみやすい雰囲気があります。 補足と歴史背景 • 上野大仏はかつて座像として像高約6メートルありましたが、関東大震災で頭部が落下し、その後胴体や脚部などは戦時中の金属供出により失われ、現在は顔面のみがレリーフとして残されています。 現在の姿は、1972年に建立されたミャンマー様式の祈願塔(パゴダ)の中に安置されたもので、「これ以上落ちない」ということで受験生の縁起物としても人気です 。 情報源 歴史的背景(寛永寺や村上藩との関係)上野大仏の歴史的背景は、実はかなり面白いんです。 寛永寺や村上藩との関係を整理して解説します。 上野大仏の歴史と背景 1. 建立のきっかけ • 建立年:寛永8年(1631年) • 発願者:越後村上藩主 堀直寄(ほり なおより) • 目的:江戸で流行していた疫病や飢饉の犠牲者を弔い、天下泰平を祈願するため。 • 場所:寛永寺(天台宗、徳川家の菩提寺)の境内「大仏山」に建立。 当時、堀直寄は徳川家と深い関係を持つ譜代大名で、江戸に屋敷を持っていたことから、江戸庶民や徳川家の安寧を願って大仏建立を主導したと考えられます。 2. 大仏の姿 • 材質:青銅 • 像高:約6メートル • 形式:釈迦如来坐像 • 江戸の町の人々からは「江戸大仏」とも呼ばれ、信仰を集めました。 3. 災害と再建の歴史 • 1647年(正保4年) 大地震で損傷 → すぐに再建。 • 1841年(天保12年) 再び地震で被害 → 修復。 • 1923年(大正12年)関東大震災 頭部が落下。像の胴体は残るも、以後再建されず。 • 第二次世界大戦(1943〜45年) 金属供出令により胴体部分が失われ、顔のみが残る。 4. 現在の姿 • 残された顔は「落ちない大仏」として再び信仰の対象に。 • 1972年(昭和47年) ミャンマー様式の「パゴダ(仏塔)」が建てられ、顔のレリーフが安置される。 • いまでは受験や就職祈願の名所として親しまれています。 寛永寺との関係 • 寛永寺は天海大僧正が創建した徳川家の菩提寺。 • 上野大仏はその境内「大仏山」にあり、寛永寺の保護と管理下に置かれていた。 • 徳川将軍家による江戸城の北東(鬼門)を守る寺としての役割の一部だったと考えられる。 村上藩(堀家)との関係 • 大仏を建立した堀直寄は、村上藩の藩主でありながら江戸と深い関わりを持つ大名。 • 村上藩堀家の祈願・供養の場としても機能した可能性がある。 • 彼が建立したことで、藩士や江戸在住の越後出身者が参拝する場にもなったと考えられる。 まとめると、上野大仏は「村上藩主が江戸の人々と徳川家のために建てた祈りの象徴」であり、寛永寺境内の重要な宗教施設だったということです。災害と戦争を経て顔だけ残った現在の姿も、歴史の積み重ねを物語っています。 もっと掘り下げて、 • 堀直寄と徳川家の関係(譜代大名としての役割) • 寛永寺と江戸城の風水的配置 • 江戸時代の庶民信仰と大仏参拝の様子 堀直寄(村上藩)・寛永寺・江戸幕府の関係をさらに深掘りして説明します。 読み物としても楽しいように、ストーリー形式でまとめています。 �【深掘り】上野大仏の歴史的背景 —堀直寄 / 村上藩 / 寛永寺 / 徳川家— ① なぜ村上藩主・堀直寄が江戸で大仏を作ったのか? ● 堀直寄とは? • 越後村上藩(現在の新潟県村上市)の初代藩主 • 2万石 → 6万石へ増加するなど、徳川家に信頼された譜代大名 • 幕府の要職(京都所司代など)を歴任した「有能な大名」 直寄は、江戸幕府にとってかなり重要な人物で、徳川家の安定を支える“中枢の譜代大名”でした。 ● なぜ江戸で大仏? 当時の江戸では、飢饉・疫病・火災が続発し、人心は不安定でした。 そこで堀直寄は、 「徳川の都・江戸を仏の力で守らねばならない」 という強い使命感を持ち、 江戸の北東(鬼門)を守る寛永寺の境内に大仏を建立しました。 つまり— ✔ 村上藩主が江戸の安寧を祈る ✔ 徳川家のための“国家事業的な大仏”だった と言えます。 ② 寛永寺は徳川家の「守護寺」だった ● 創建したのは「天海僧正」 • 徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた名僧 • 江戸の都市設計にも深く関与した人物 天海は、「京都の比叡山と同じような都の守護構造」を江戸に作ろうとしました。 その中心が 寛永寺(上野) です。 ● 寛永寺の役割 1. 江戸城の鬼門を守る寺 2. 徳川将軍家の菩提寺(歴代6人の将軍が眠る) 3. 江戸の巨大な宗教的中心地 寛永寺の境内に大仏を置くというのは、 ✔ 江戸城の守りを強化する ✔ 徳川家の安泰を仏に祈願 という非常に重要な意味がありました。 ③ 上野大仏が「災難を受け続けた」理由は? 実はこれも寛永寺・徳川家との関係で説明できます。 ● 大仏は何度も地震で壊れた • 1647年(正保の地震) • 1841年(天保の地震) など、江戸時代を通して再三の被害。 しかしそのつど、 ✦ 直寄の子孫・堀家 ✦ 寛永寺 ✦ 江戸の篤志家(商人など)によって修復されてきました。 つまり大仏は 江戸の人々の信仰の中心 でもあったのです。 ④ 関東大震災〜戦争による「顔だけの大仏」へ ● 1923年:関東大震災 • 大仏の頭部が落下 • 胴体は残ったが、修復は行われなかった ● 1943〜45年:金属供出 • 胴体部分が軍需用に回収される • ついに“顔”だけが残された その残された“顔”を寛永寺が保管し続けたことで、現在の姿につながります。 ⑤ 「落ちない大仏」へ ─ 受験の神様になるまで ● 1972年(昭和47) • ミャンマー様式パゴダを建立 • 大仏のお顔をそこに安置 頭が落ちないように固定されたことから、 ✔ これ以上「落ちない」=受験に落ちない という新しい信仰が生まれました。 歴史的にはとても由緒ある大仏ですが、現代では親しみやすい縁起スポットとして生まれ変わっています。 ⑥ まとめ(短く) ■ 村上藩主・堀直寄 江戸の安寧と徳川家の繁栄を祈り、寛永寺境内に大仏を建立。 ■ 寛永寺 幕府の守護寺であり、江戸の宗教的中心。大仏はその象徴的存在。 ■ 江戸の人々 災害や疫病からの救済を祈って参拝し、何度壊れても修復した。 ■ 現代 顔だけ残った大仏は「落ちない大仏」として再び人気に。 |
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