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リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.255 |
令和7年1月発行 | |||||||||||||||||||||||||
遠州浜松より村上時代を振り返る〜そして今、浜松で(その3・最終回) |
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浜松時代 昭和46(1971)年明け、私の父が金雄(主人)を呼び出し、「章子と別れるか、店を続けるか」と話を始めた。その結果、店を止めることになった。主人もすっかりふさぎ込んでいた。でも行動力はすごかった。「店は止めるから、別かれない」と、これには私もびっくりした。2月初旬に閉店、主人は東京以外なら何処でもいいと、私の父の妹(叔母さん)が浜松で女医を開業していたので、そこを頼って浜松に行くことにした。 3月末に私と子ども3人計4人で村上駅に行き、大勢の人達に送られ、子供達は泣きながら別れを惜しんでいた。思い出すと、今でも涙が出る。主人は最後の後片付けをすませ一週間後、軽自動車で浜松に無事到着した。これから再スタート。私の妹・紀美の嫁ぎ先の家(棚橋家)に当分お世話になり、高林町に家を借り、私は新聞の求人欄を見て日本楽器(後ヤマハ)に入社した。主人は棚橋家のお世話で個人会社に入り、肉体労働をして腰を痛めてしまった。 私はこのままでは主人の身体がだめになる、何とかしなければと思い、私が勤める日本楽器に入社を勧めたが、妹の主人(棚橋家)に義理があり、「絶対だめ」といった。それでも私は1人でヤマハの本社に行き、一生懸命説明して、入社させてもらってきた。今思えば必死だった。 浜松に来ることになって、姑は村上の瀬波の実家に預けてきた。2年後には必ず迎えに来るからと。2年間の生活費を、主人の母親の実家に渡し、頼んできた。浜松に住んで2年目、東区大蒲町に土地を買い家を建てた。賃金は二人でヤマハに勤めていると云うことで、銀行から借りることができた。 私の職場・ヤマハの電子楽器部門が中沢町の本社から豊岡村の工場に移転、マイクロバスに乗るため、子供3人に鍵を渡し、朝早く先に家を出た。 夜は夕食後、洋服作りをした。その頃は生活が大変だったので長女には大学進学を諦めてもらい、長女は中学2年に習い始めたエレクトーンの仕事の資格を取り、ヤマハのデモ演奏や結婚式場の演奏、更に自宅に音楽教室を開設していた。それには洋服が必要だが、買う事が出来ず(私は)仕事から帰り、夕食の家事を片付けた後、ダルマヤで買った生地で毎晩遅く迄、娘の洋服作り行った。それを着て演奏の仕事していた。 主人、新潟県人会を知り入会 新潟県人会に入会の頃、更に、(主人は)広告を見て「浜松発明研究会」を発足させた。本人は、これで人生を取り戻せるならと始めたらしい。また父の妹、女医の病院窓口の手伝いのため、医療保険事務の資格を一生懸命に勉強して取得した。 次女について 大学卒業後、大阪の外資系コンピュータ会社に入社。仕事の成績が良いとのことで、会社の招待で私達もハワイ旅行に参加。自由行動ではハワイ島一周、キラウェア火山、夜はクルージング等、久しぶりに楽しい思いをした。クルージングで歌のコンテストがあり、主人は賞金として100ドルもらった。その100ドルでハワイの指輪を買ってくれた。結婚時に結婚指輪も何ももらっていなかったので、これが80歳なるまでに主人の金雄から買ってもらった、たった一回の指輪になった。 次女の結婚相手は中国からの国費留学生。名古屋で大学4年卒、博士課程3年目の時、図書館で知り合ったとのこと。中国人と聞き大反対したが、相手は京都の日本企業に就職し、その後、結婚して京都で生活。 男の子が生まれ中国の親の家へ訪問した。両親と初対面のため、孫と5人で北京空港から中国へ入国。天安門、万里の長城等旅行をしながら、先方の武漢の両親の所で、約1週間位滞在し、上海空港から帰国。これも楽しい思い出になった。 遠州新潟県人会・民謡部門発足 平成4(1992)年主人はヤマハを定年退職。二人で退職記念旅行は思い出の熊本に行く。平成7(1995)年に私もヤマハを定年退職。この頃、新潟県人会に入会。丁度民謡部会が立ち上がり、折角だからと私も勧められて入会。新潟県は民謡の宝庫だから「佐渡おけさ」だけでも踊れたらと参加した。 長男は浜松北高等学校、静岡大学工学部、大学院を卒業。家から通える、お金もかからなくてほっとしていた。平成9(1997)年、私は近所の松下食品にお手伝い。平成11年、長男が結婚する為、家を建て替えた。 夏から、にんじん亭のお弁当工場へアルバイトに行った。夜中1時~朝8時頃までの勤務、昼を自由に使えるから。県人会民謡部門は、6月の総会で踊りを発表するのが先ず目標。その他、県人会の色々な会合にも出演した。練習は月2回、山本豊静洋先生の指導のもと、当時の部員は男性7人、女性7人の構成。新潟県民謡は佐渡おけさ、相川音頭等。全員楽しくお稽古に励んだ。春の浜松城公園のお花見にも部員はそろいの着物を着て、県人会員全員も加わって踊ったりお話をしたりした。皆さんにお会いできるのが待ち遠しく、また総会も楽しみだった。 浜松城公園の花見では、新潟県人会の幟旗(のぼりばた)を立て、全員が楽しんでいる時、小林君枝さん(現婦人部長)が見えられ、お話したのがきっかけで、ご夫婦で新潟県人会に入会していただいた。山本先生の「歩の会」の主催する「おさらい会」がUホールで盛大に行われ出演した。新潟県人会民謡部会も、大勢の観衆の前で舞いをするので、とても緊張したのが、一生の楽しかった思い出になった。 三味線、長唄 定年後、子供達も結婚し少し時間が出来たので長唄、三味線のお稽古に通い、主人に送り迎えをしてもらった。今思い出すと、主人は私が家で稽古するのを嬉しそうに聴いていた。 平成20(2008)年5月、東京国立劇場で家元の「追悼記念演奏会」が開催され、浜松から合同演奏会に出演した。この時は、世界からも演奏の為、大勢来日していた。一生に一度の出来事、本当に緊張した。 平成24(2012)年8月74歳。次女と子供(孫)がカナダのバンクーバーに移住しているので、名古屋に嫁いでいる長女と二人で約10日間カナダ旅行を楽しんできた。成田発でバンクーバーへ、行き先はクエリーロッキー山脈、氷河にも行った。 主人倒れて入院 平成24(2012)年12月20日、遠州新潟県人会の2代目会長となっていた主人(金雄)が倒れ、入院した。平成26(2014)年8月、再度カナダバンクーバーへ行った。次女と孫に逢いに今度は娘の主人と二人で行った、76歳。4人乗りの水上飛行機に乗った。フライトは海に離着陸するスリルある飛行体験だった。平成28(2016)年ホウェールウォッチングでクジラを見る見学会に参加。平成29(2017)年1月、中国上海へ。長女と二人で中国へ転勤中の孫、長女の長男に逢いに行った。上海は周りが高層ビル、孫はそこの18階に住んでいた。平成29年3月、施設療養中だった主人が逝去。墓は村上から浜松に移しました。 平成30(2018)年12月83歳、現在に至る。浜松は第二の故里、今は長男家族と孫たちに囲まれて幸せな人生だ。現在は新潟県人会の人達や周りの人達に支えられ、また励まされ楽しい人生を送っている。 (了) ***** 今回のリレー随筆は筆者の自叙伝『佐藤章子 自分史』(2018年12月22日発刊)から、著者の許可を得て、抜粋して転載しました。(pp.14-17) |
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