2024年7月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.249

あげたおにぎり あげられなかったおにぎり
~所沢市「平和の語り部」の思い~
(その7・最終回)

杉本 孝一郎
(すぎもと こういちろう)
昭和7(1931)年1月、東京で生まれる。明川国民学校高等科入学、昭和20年に疎開で一家で村上町に転入。同年、父と共に宮本製作所入社。昭和22(1947)年、町営番長住宅に移転(後に飯野に自宅を建てる)。昭和24(1949)年、県立村上高校定時制夜間部に入学。在学中、村上高校全学弁論大会で優勝。昭和29(1954)年3月、村上高校卒業。昭和34(1959)年に結婚し、昭和39(1964)年に一家で上京し昭和43(1968)年に所沢市に移転。その後、地域活動として入間基地騒音の防音対策、平和の語り部、東狭山ヶ丘駅ロータリーの花壇の世話、児童の見守り隊などに取り組み、令和元(2019)年に長年社会貢献の功績で埼玉県より「シラコバト賞」受賞。





筆者の近影










所沢市の「平和の語り部派遣事業」を報じる埼玉新聞(平成19年8月1日付)写真右が我が筆者









「平和の語り部」として、子どもの前で戦争中の体験を語る










「平和の語り部」として学校で生徒たちに語る










埼玉県平和資料館(埼玉ピースミュージアム)で開かれた「戦争中の体験を聞く会」のパンフレット









宮前小学校の子どもたちと高齢者とのふれあいの場にて
平和事業への提言と「語り部

 前号までの随筆で地域社会への貢献の活動として平成17(2005)年に始めた駅前花壇の取り組みや隣接する入間基地の騒音対策として「所沢市小中学校エアコン導入問題」に地域住民のリーダーとして取り組んみ成果を上げてきました。また、平成17年12月に栃木県で起きた小学校1年生の女児への殺人事件に心を痛め、当時の所沢市の宮前小学校の校長先生に、「なにか子供たちのために私にできることはないですか」と相談をして、登校時の「子ども見守り隊」のアイディアが生まれて、現在に至るまでこの活動を継続しています。
 被爆60周年にあたる平成17(2005)年、所沢市の「広島平和記念式典参加事業」に応募し、同年8月6日に広島市の平和記念公園で開かれた平和記念式典に参加しました。その時、最も胸を打たれたのが、地元の小学校6年生の男女児童が読み上げる「平和の誓い」でした。そして、「私たちは平和に向けて真剣にそして積極的に取り組むべきだ」と心に誓ったのでした。そこで、平和記念式典参加事業後、アンケートなどで所沢市に2つの提言をしました。
 1つは、当時所沢市が行っていた平和講演会をやめて「戦争経験者が実体験を語る会にすべきだ」ということです。それまでは年に1回、市民文化センター「ミューズ」などに市民を集め、外部の著名人に1回、数十万円という高額な講演料を支払って話をしてもらっていましたが、形式だけの平和事業になっていました。私は「戦争体験を語る会」にして、子どもたちにも聞かせるべきだと提言しました。そして「私が自ら戦争体験を語ります」と書きました。
 もう一つの提言は「平和式典参加事業は、子どもを対象にするべきだ」ということです。平成17年度参加者は10人ほどの一般参加者に市職員2人、市議が2人ついてきました。でも正直言って大人は物見遊山(ものみうさん)気分で参加していると感じました。そこで「式典の参加者は、大人をやめて、中学生、高校生、大学生にすべきだ」と提言しました。
 この提言はいずれも、当時の市長らに受け入れられました。同18年度から、「所沢市平和を語る会」(平和の語り部派遣事業)」がスタートしました。私も語り部の1人として、市内の小中学校に出かけていって、自分の戦争体験を直接子どもたちに話しています。
 また「平和式典参加事業」も対象が中学生、高校生、大学生になりました。「語り部」の話を聞いた子供たちが書いた感想文や写真を平和祈念資料館に届けたことがあります。厚生労働省の方が受け取ってくださり、いまも資料館に納められているはずです。

「語り部」で話すこと:「世界の子どもに目を向けて」

 私が「平和を語る会」で語るのは、戦時中の私の体験です。私自身の戦争体験を紹介し、「戦争は二度とやってはいけない。いのちを大切にしなさい」と訴えます。(中略)
 そして、講演の最後には、世界の子どもたちの話をします。「私の経験は決して過去の日本だけの話ではありません。戦争や飢え、そして病気にかかっても治療を受けられずに、毎年約500万人もの子供たちが死んでいます。みんなも今の世界の子どもたちに目を向けてほしい」と話してきました。
 ユニセフ(国際連合児童基金)の話もします。「戦後、皆さんのおじいちゃん、おばあちゃんは、給食で脱脂粉乳(だっしふんにゅう)を飲みました。決しておいしくはなかったけど、食料が乏しく、栄養失調が蔓延(まんえん)していた時代には貴重な栄養源で、多くの子どもたちはこれで救われました。その脱脂粉乳は世界の人たちの寄付金をもとに、ユニセフやララ(アジア救援公認団体)が提供してくれたのです。」と説明します。そして私は毎年、ユニセフに寄付をしていますとも話しました。
 みんなにユニセフへの寄付を呼び掛けたわけではありませんが、私の講演を聴いたある小学校のクラスが、みんなでお金を出し合って、ユニセフに寄付をしたこともありました。私の講演を聴いた後、子どもたちで学級会を開き、「みんなでお年玉の一部をユニセフに寄付しよう」と決めたそうです。37,38人のクラスでしたが、正月明けに6~7千円があつまり、先生に寄付してほしいと持ってきました。先生がユニセフに連絡したら、ユニセフの人が学校に来て贈呈式をするというので、私も呼ばれて出席しました。子どもたちがいろいろ段取りをして、「世界の貧しい子供たちにあげてほしい」と言ってユニセフのひとに手渡しました。私はうれしくて涙が出ました。

「語り部」15年、聴衆2万人

 (中略)語り部活動が10年を超えた平成30(2018)年に、所沢市から感謝状を頂きました。所沢市の「平和を語る会」は平成29年12月7月末時点で、161回開かれ、のべ1万3958人の方が参加されました。このうち私の講演は、令和元年末まで計66回、聴取者は同年10月末までに5485人に上ります。(所沢市調べ)
 これ以外にも、学校の父兄参観日や母親学級、所沢市の新人研修、社会福祉協議会、さまざまな社会福祉法人から要請を受け、お話してきました。最近は隣の狭山市の小中学校からも年間十数回呼ばれるようになりました。学校で話すときはクラス単位や、学年単位で集まることが多いのですが、狭山市では一度に数百人の全校生徒に話すといった機会も増えました。すべてを合わせると、これまでの聴衆は2万人に上ると思います。

高齢者とともに
 
 私は(この拙著を上梓した)2020年1月の時点で既に88歳になった後期高齢者ですが、高齢者間のふれあいや認知症の方々への支援にもいろいろ取り組んできました。

(1)高齢者コーラス「すみれ会」
 高齢者との関わりは、15年ほど前に誘われて入った「すみれ会」というコーラスグループが最初でした。男女混声合唱団で、いまも20人近い方が参加され、平均年齢は70歳くらい。因みに私のパートはテノールです。月に3回、東京都田無(たなし)市から先生にお越しいただき練習会をしています。企画運営は参加者全員でやるというのがモットーですが、今は私が責任者を言いつかっております。(以下省略)

(2)徘徊者の救護訓練
 高齢化に伴い、認知症で町を徘徊(はいかい)する老人が増えました。町の人たちがそうした老人に遭遇した時、どう接すればいいのかを知っておくことは大事なことです。そこでそうした勉強会を平成28(2016)年にスタートさせました。(中略)
 研修会では、徘徊するお年寄りには、後ろから声をかけてはいけない。必ず前に回って、相手の目を見ながら声をかけること。しかも、相手より目線が低くなるようにしゃがんで話しかける。上から目線では話さない、といったことを教えてもらいました。そこで、こうした勉強を広く地域の人にもしてもらおうと、平成28年から宮前小で、PTA、行政、児童、社会福祉法人、民生委員、自治会、病院も一体となって徘徊老人を救うための訓練を実施しました。令和2(2020)年には4回目の訓練を実施する予定です。

(3)子どもたちと高齢者のふれあい
  また、宮前小学校の子どもたちが、お年寄りたちと直接触れ合う場も作りました。核家族化する中で、子どもたちが認知症のお年寄りに接することはほとんどありません。そこで、子どもたちにそうした機会を設けようというのが狙いです。
 具体的にはフラワーボランティアの人たちが花壇の手入れをしに来る毎週木曜日の午後に、近くのグループホームに入居するお年寄りに同小に来てもらい、校門の前で下校する低学年の子どもたちと10~15分程度、挨拶したり、握手したり、ハグしたり、じゃんけんしたりとふれあっています。
 最初子どもたちは見知らぬお年寄りに近づこうとしませんでしたが、だんだんやさしく接するようになり、今では楽しんで帰るようになりました。お年寄りたちも、このふれあいのあとは就寝まで、意識がしっかりして、記憶も少し戻るそうです。
 
最後に、平和と命の大切さをいつまでも

 息子たちは近くに住んでいますが、私は1人で食事、洗濯、掃除をこなしています。毎朝6時に起きて朝食を済ませ、平日は午前7時半から午前8時15分まで、「子ども見守り隊」として通学路に立っています。年20回ほどの「平和の語り部」活動に加え、小学校や駅前の花壇の世話、「ところざわYOSAKOI」の寄付金集め、高齢者サロンや高齢者コーラスグループの運営、認知症老人と子どもたちのふれあいの場づくり、徘徊老人の救護を学ぶ活動など、毎日のように用事があり、自分で車を運転して出かけます。
 息子たちからは体を心配して、「色々活動をするのは、そろそろやめたら」と言われます。でも、やらなきゃならないことはまだまだありますし、周りの人達もなにかあると「杉本さん、お願いします」と言ってこられます。私も断れない性分なので、身体が続く限り続けることになると思います。
 毎朝、通学路で「おはよう」と声をかけると、子どもたちは元気に、「おはようございます」と返してくれます。最後に登校する子どもたちを校門まで見送ると、中から「ありがとうございました」とお礼の挨拶が返ってきます。こんな子どもたちがいる限り、私も頑張ります。平和と命の大切さをまだまだ語り続けなければなりませんから。  (了)

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今回のリレー随筆は筆者の同じタイトルの『あげたおにぎり あげられなかったおにぎり~所沢市「平和の語り部」の思い~』(2020年出版で現在絶版)から、著者の許可を得て、今号でも同著から抜粋して転載しました。(pp.83-190)

                         
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次回予告

 
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)
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