2024年5月号
  リレー随筆 「鮭っ子物語」  No.247

あげたおにぎり あげられなかったおにぎり
~所沢市「平和の語り部」の思い~(その5)

杉本 孝一郎
(すぎもと こういちろう)
昭和7(1931)年1月、東京で生まれる。明川国民学校高等科入学、昭和20年に疎開で一家で村上町に転入。同年、父と共に宮本製作所入社。昭和22(1947)年、町営番長住宅に移転(後に飯野に自宅を建てる)。昭和24(1949)年、県立村上高校定時制夜間部に入学。在学中、村上高校全学弁論大会で優勝。昭和29(1954)年3月、村上高校卒業。昭和34(1959)年に結婚し、昭和39(1964)年に一家で上京し昭和43(1968)年に所沢市に移転。その後、地域活動として入間基地騒音の防音対策、平和の語り部、東狭山ヶ丘駅ロータリーの花壇の世話、児童の見守り隊などに取り組み、令和元(2019)年に長年社会貢献の功績で埼玉県より「シラコバト賞」受賞。





筆者の近影










「長男勝彦を抱いた妻昭子と筆者:昭和36年末~37年初め、村上の自宅前で」










「協電社の社員旅行で奥多摩のキャンプ。左から4人目のタオルを首にかけているのが筆者:昭和40年頃」










「NCCの社員と東京・明治神宮での初詣。前列左端が筆者:平成18年ごろ」










「空調設置のための事前調査で訪れた吹上御所で同僚(左)と筆者:昭和42年3月ごろ」


新しい家庭
 
 妻昭子と結婚したのは昭和34(1959)年、私は27歳、妻は22歳の年でした。母が、知り合いだった村上市議会議員に嫁探しを頼み、その紹介による見合い結婚でした。妻は当時、新潟県の職員で出先機関の岩船耕地出張所に勤務していました。(中略)
 それほど豊かではありませんでしたが、夫婦共働きで、希望を持って新生活に踏み出しました。新婚の3年近くは、地元の高校に通う小夜子も同居していました。ところが、結婚直後の健康診断で、またも胸に結核の影が映ったのです。私は再び、大きな失望を味わいました。
 でも家庭を持った以上、「とにかく根治しなければならない」と1時間ほど離れた新潟市内の大きな病院に行き、先生に「もう影が映らないように患部を切ってほしい」と懇願して、右の胸を手術してもらいました。今も大きな手術(あと)が残っています。この時は会社も休職し、1年半くらい入院しました。東京から母も来て、看病してもらいました。
 退院したのは昭和36(1961)年1月に長男が生まれた直後のことでした。

新潟地震、東京へ

 昭和39(1964)年6月16日の午後1時1分、新潟県をマグニチュード7.5、陸上の震度は最大5の大地震が襲いました。あちこちで地盤の液状化が発生、3~4階建てアパートが横倒しになったほか、(新潟市内の)昭和大橋の橋(げた)が落下するなど、死者は新潟、山形、秋田で計29人に上りました。
 自宅はもちろん、会社も、妻の実家も、家財道具が倒れたり家が傾いて壁にひびが入ったり、大きな被害が出ました。東京から父親がやってきて、復旧作業を手伝ってくれました。3歳だった長男勝彦を東京の父母に一時的に預かってもらい、復旧作業を続けました。
 しかしまだ子供は小さいし、地震は怖い。どうしようか悩んでいたところに、(弟の)孝次から「仕事を手伝ってもらえないか」と声がかかりました。孝次が立ち上げて経営していた「協電社」に、私を専務取締役で迎えたいということでした。
 (妹の)小夜子も、その頃には東京で就職し、私以外の父母きょうだいはみんな、東京に戻っていました。会社の仲間からは残って欲しいと頼まれましたが、新潟は地震が多いことも気になり、新潟(県)出身の妻を説得して東京行きを決めました。東京オリンピックが終わった直後の昭和39年10月末、家内と(長男の)勝彦を連れて東京に帰りました。空襲から逃れるために東京を離れてからほぼ20年が経っていました。

新しい仕事への挑戦

孝次の会社「協電社」は池袋にあり、まだ普及し始めたばかりの空調設備を設置する会社でした。私は新潟では資材調達の仕事をしていましたから、空調設備の資材調達などを手伝うとともに、空調設備を設置する現場の事前調査を担当しました。
 昭和40年代、空調設備を導入するのは大きなビルや公的施設が中心でした。吹上(ふきあげ)御所、宮内庁病院、宮内庁書陵部(しょりょうぶ)、宮内庁本庁舎など、皇居関連の施設にも設置することになり、事前調査で足を運びました。当時、皇太子ご夫妻(現明仁上皇、美智子上皇后)がお住いになっていた東宮御所(とうぐうごしょ)にも入って、ふだんお使いになっている部屋も調査させていただきました。室内には伝統的な立派な家具が並んでいましたが、思ったほど華美ではなく、質素にお暮しになるのだな、と思った記憶があります。
 昭和50年代半ばになると、協電社の後に弟が立ち上げた「有限会社杉本電業社」で、コンピュータのネットワークを構築する仕事がメインになりました。当時は、大企業が大型のコンピュータのネットワークを相次いで導入していたころで、自社の各拠点に設置した大型のコンピュータを、NTTの通信回線を経由して次々と結び、社内のネットワークを構築していた時代で我々は大企業から、ネットワーク構築の作業を請け負っていました。
 当時、オフィスのコンピュータ化で最も進んでいたのはサントリーで、週末でオフィスが休みになると大勢の社員を赤坂見附(みつけ)の本社に連れて行き、コンピュータのネットワーク化を進めました。4,5年は通いました。
 当時はまだ書類も手書きの時代でしたが、サントリーの担当の方から「杉本さん、10年後は机の上にコンピュータ1台を置いて、紙を使わないオフィスになりますよ」といわれ、「進んだ企業だな」と感心したものです。その方の言ったとおり、今ではほぼすべての社員がパソコンやモバイルを持って仕事をする時代になりました。当時はまだ、コンピュータはすべて有線で結んでいて、何本ものケーブルを天井裏にはわせていましたから、その重みで天井がしなったものです。
 東京電力のコンピュータをネットワーク化する仕事は、私が責任者になってやりました。土日には社員を10人も20人も連れていって取り組みましたが、企業規模が大きく、6,7年かかりました。
 大和(だいわ)証券の場合は、全国の支店にあるコンピュータを、ネットワークで結ぶ仕事を請け負い、北海道から沖縄まで、日本全国の支店を飛び回りました。ネットワーク化の仕事は、昭和50年代半ばから平成7,8年ぐらいまでやりました。
 「杉本電業社」は私が72,73歳の頃に会社をたたみましたが、同じようにネットワーク関連の仕事をしていた新宿の「NCC」に顧問として迎えられ、その後は非常勤の取締役として80歳、平成24(2012)年まで勤めました。

下水道と基地の騒音

 空調設備からコンピュータのネットワーク化へと、その時代の最先端の仕事でしたので、多忙でした。私はまさに会社人間でしたから、日本全国を飛び回って、近所づきあいも家のことも、ほとんど家内に任せきりでした。
 そんな私が、地域社会に関わったのは、次男康彦が生まれた昭和43(1968)年に、埼玉県所沢市狭山(さやま)丘に土地を買い、今の自宅を建てたのがきっかけでした。
 当時の狭山ヶ丘は、まだ、空き地や畑の広がる新興住宅地で、下水道もありませんでした。また、航空自衛隊入間(いるま)基地が近く、低空で戦闘機が離着陸しますから、騒音もひどかったのです。直前は東京に住んでいましたから、環境の落差を強く感じたのだと思います。「なんとか改善しなければ」と思ったのが、地域社会と関わる最初のきっかけでした。
 最初に手がけたのは下水問題の方です。それまで住んでいた東京の借家には、下水道が完備されていましたから、とても不便に感じ、当時の平塚勝一(かついち)所沢市長に直接お願いすることにしました。知人の紹介で市長のお宅にお邪魔し、直接狭山ヶ丘地区への下水道敷設(ふせつ)をお願いしました。現地調査もお願いし、不老(ふろう)川周辺を長靴姿で視察してもらいました。その結果、下水道の敷設とポンプ施設の建設が認められたのです。(中略)隣接地区も含めると約400世帯に下水道が普及したのです。実現したのは私が動き出して3,4年後のことでした。


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今回のリレー随筆は筆者の同じタイトルの『あげたおにぎり あげられなかったおにぎり~所沢市「平和の語り部」の思い~』(2020年出版で現在絶版)から、著者の許可を得て、今号でも同著から抜粋して転載しました。(pp.64-82)

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次回予告

 
リレー随筆「鮭っ子物語」は、村上市・岩船郡にゆかりのある方々にリレー式に随筆を書いていただき、ふるさと村上・岩船の発展に資する協力者の輪を広げていくことを目的としています。 (編集部)
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