2024年5月号 | ||||||||||||||||
リレー随筆 「鮭っ子物語」 No.247 |
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あげたおにぎり あげられなかったおにぎり ~所沢市「平和の語り部」の思い~(その5) |
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新しい家庭 妻昭子と結婚したのは昭和34(1959)年、私は27歳、妻は22歳の年でした。母が、知り合いだった村上市議会議員に嫁探しを頼み、その紹介による見合い結婚でした。妻は当時、新潟県の職員で出先機関の岩船耕地出張所に勤務していました。(中略) それほど豊かではありませんでしたが、夫婦共働きで、希望を持って新生活に踏み出しました。新婚の3年近くは、地元の高校に通う小夜子も同居していました。ところが、結婚直後の健康診断で、またも胸に結核の影が映ったのです。私は再び、大きな失望を味わいました。 でも家庭を持った以上、「とにかく根治しなければならない」と1時間ほど離れた新潟市内の大きな病院に行き、先生に「もう影が映らないように患部を切ってほしい」と懇願して、右の胸を手術してもらいました。今も大きな手術 退院したのは昭和36(1961)年1月に長男が生まれた直後のことでした。 新潟地震、東京へ 昭和39(1964)年6月16日の午後1時1分、新潟県をマグニチュード7.5、陸上の震度は最大5の大地震が襲いました。あちこちで地盤の液状化が発生、3~4階建てアパートが横倒しになったほか、(新潟市内の)昭和大橋の橋 自宅はもちろん、会社も、妻の実家も、家財道具が倒れたり家が傾いて壁にひびが入ったり、大きな被害が出ました。東京から父親がやってきて、復旧作業を手伝ってくれました。3歳だった長男勝彦を東京の父母に一時的に預かってもらい、復旧作業を続けました。 しかしまだ子供は小さいし、地震は怖い。どうしようか悩んでいたところに、(弟の)孝次から「仕事を手伝ってもらえないか」と声がかかりました。孝次が立ち上げて経営していた「協電社」に、私を専務取締役で迎えたいということでした。 (妹の)小夜子も、その頃には東京で就職し、私以外の父母きょうだいはみんな、東京に戻っていました。会社の仲間からは残って欲しいと頼まれましたが、新潟は地震が多いことも気になり、新潟(県)出身の妻を説得して東京行きを決めました。東京オリンピックが終わった直後の昭和39年10月末、家内と(長男の)勝彦を連れて東京に帰りました。空襲から逃れるために東京を離れてからほぼ20年が経っていました。 新しい仕事への挑戦 孝次の会社「協電社」は池袋にあり、まだ普及し始めたばかりの空調設備を設置する会社でした。私は新潟では資材調達の仕事をしていましたから、空調設備の資材調達などを手伝うとともに、空調設備を設置する現場の事前調査を担当しました。 昭和40年代、空調設備を導入するのは大きなビルや公的施設が中心でした。 昭和50年代半ばになると、協電社の後に弟が立ち上げた「有限会社杉本電業社」で、コンピュータのネットワークを構築する仕事がメインになりました。当時は、大企業が大型のコンピュータのネットワークを相次いで導入していたころで、自社の各拠点に設置した大型のコンピュータを、NTTの通信回線を経由して次々と結び、社内のネットワークを構築していた時代で我々は大企業から、ネットワーク構築の作業を請け負っていました。 当時、オフィスのコンピュータ化で最も進んでいたのはサントリーで、週末でオフィスが休みになると大勢の社員を赤坂 当時はまだ書類も手書きの時代でしたが、サントリーの担当の方から「杉本さん、10年後は机の上にコンピュータ1台を置いて、紙を使わないオフィスになりますよ」といわれ、「進んだ企業だな」と感心したものです。その方の言ったとおり、今ではほぼすべての社員がパソコンやモバイルを持って仕事をする時代になりました。当時はまだ、コンピュータはすべて有線で結んでいて、何本ものケーブルを天井裏にはわせていましたから、その重みで天井がしなったものです。 東京電力のコンピュータをネットワーク化する仕事は、私が責任者になってやりました。土日には社員を10人も20人も連れていって取り組みましたが、企業規模が大きく、6,7年かかりました。 「杉本電業社」は私が72,73歳の頃に会社をたたみましたが、同じようにネットワーク関連の仕事をしていた新宿の「NCC」に顧問として迎えられ、その後は非常勤の取締役として80歳、平成24(2012)年まで勤めました。 下水道と基地の騒音 空調設備からコンピュータのネットワーク化へと、その時代の最先端の仕事でしたので、多忙でした。私はまさに会社人間でしたから、日本全国を飛び回って、近所づきあいも家のことも、ほとんど家内に任せきりでした。 そんな私が、地域社会に関わったのは、次男康彦が生まれた昭和43(1968)年に、埼玉県所沢市 当時の狭山ヶ丘は、まだ、空き地や畑の広がる新興住宅地で、下水道もありませんでした。また、航空自衛隊 最初に手がけたのは下水問題の方です。それまで住んでいた東京の借家には、下水道が完備されていましたから、とても不便に感じ、当時の平塚 ********** 今回のリレー随筆は筆者の同じタイトルの『あげたおにぎり あげられなかったおにぎり~所沢市「平和の語り部」の思い~』(2020年出版で現在絶版)から、著者の許可を得て、今号でも同著から抜粋して転載しました。(pp.64-82) |
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